百物語。
長年過ごしたこの家とも別れをしなければならないとあって、どこか腑に落ちないところもある。

昨日のうちに荷物は殆ど段ボールに詰め込んでしまっていたため、今家はほぼカラッポ状態だ。

朝食を食べ終えて歯を磨いたり顔を洗ったり、一通り全て済ませたところでお母さんが階段を降りてくる。

顔から察するに、どうやらお目当てのものは見つからなかったらしい。

「あら?お父さんは?」

「お父さん?いなかったけど」

「え?」

私の返答に、お母さんは眉根を寄せて怪訝に声を上げた。

そう言えば、朝食を終えたという父の姿がさっきから見当たらない。トイレでも行っているのか。

「そんなことよりお母さん、引越し先ってどこだっけ?東京だよね」

「ええ、東京の………」

そこまで言って、お母さんの言葉が止まる。気にしないまましばらくは携帯をいじっていた私だったけど、会話が途中で途切れてしまったのはやっぱり後味が悪くて顔を上げた。

すると、見えたのは口を半開きにしたまま固まっているお母さん。

「?どうしたの?」

「……どこだっけ?」

「は?」

意味の分からない科白に、今度は私が眉間に皺を寄せた。

「どこだっけ、東京、なのよね…東京……東京の……」

「…?何言ってんの?」

「東京…トウ…………。…トウキョウ…?」

お母さんが復唱するように呟く。私は未だ意味が分からないまま、ただその様子を眺めていた。

数分経てば、お母さんは静かに俯いて、思い出そうとしているのか再び呟きだす。

「お母さん?」

そんな異様な光景に良く思わない娘がいないわけがない。私は一応声をかけてみた。

しかしお母さんはぶつぶつと念仏でも唱えるかのように呟き、考え込むように首をひねる。

不安になった私は、腰掛けていたソファーから立ち上がり、両親の寝室に向かう。確かそこに引越し先の住所があったはずだ。
 
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