初恋の終焉〜悪女に仕立てられた残念令嬢は犬猿の仲の腹黒貴公子の執愛に堕ちる
惹かれ出す心
「――婚約者だと? どういう意味だ!」
「言葉通りの意味ですよ。エリザベスは私の婚約者です。勝手に人の婚約者に手を出さないで頂きたい」
会場内にどよめきが起こった。そこかしこからヒソヒソ声が聴こえてくる。
『ハインツ様とエリザベス様は婚約されていらっしゃるの?』
『まさか、公爵家同士だぞ。ありえないだろう』
『そんな話は聞いていないな。正式な通達もない』
『でも、ハインツ様の胸のブローチを見て。エリザベス様の瞳の色と同じよ』
『お二方の衣装も、揃いで作った物ではなくって?』
会場内のどよめきに、エリザベスはハインツの胸に埋めていた顔を慌ててあげる。それに気づいたのか、安心させるようにわずかに肩を抱く腕の力が強まった。
周りでざわめいている貴族達と同じように、エリザベスの頭の中も疑問符でいっぱいだった。
今回のハインツとの婚約に関しては、正式な通達が他家へ届いている訳ではないのだ。しかも、公爵家同士の婚姻が禁忌とされている事は周知の事実でもある。
それなのに公の場で、しかも元婚約者を前にハインツとエリザベスが婚約しているなどと言えば、方々への影響は計り知れない。
(正式な通達がない中で、婚約宣言なんてして良いものなの?)
「はは、婚約者だと? そんなはずはない。私は何も陛下から聞いていないぞ」
「貴方様に話す必要が無いとの判断をされたのではありませんか、陛下は。何しろ身勝手な理由で婚約破棄した挙句、王家の意向を無視してお隣にいる男爵令嬢と婚約されたようですしね」
「なに!? マリアとの婚約は、王家の意志であるぞ。陛下は真実の愛を貫くことを許してくださった」
「真実の愛ですか……馬鹿ばかしい。まぁ、良いでしょう。今はその真実の愛とやらに浸っていればいい。話は終わりました。行きましょう、エリザベス」
さりげなく腰へと腕を回され、ハインツのエスコートでエリザベスはその場を後にする。背後でウィリアムがわめき散らしていたが、エリザベスにとってそんな事はどうでも良くなっていた。
(ハインツ様が隣にいるだけで、こんなにも安心出来るなんて……、不思議ね……)
「エリザベス、すみませんでした。この人の多さに貴方を見つけられなかった。怖い思いをさせましたね」
「いいえ、大丈夫です。ただ、皆様の前で婚約の件、話しても良かったのでしょうか?」
「何か、マズい事でもありましたか? 婚約の件は遅かれ早かれ貴族家に伝わるでしょう。書簡を出す手間が省けたと思えば良いだけの話です。それとも、エリザベスは私との約束を反故にしますか? あの夜誓った約束を」
耳元でささやかれた最後の言葉が身体を震わす。
淫らな夜の事がフラッシュバックして、身体の奥深くがジンっと疼く気がした。
「エリザベス、顔が真っ赤ですよ」
クスクスと笑いながら紡がれた言葉にエリザベスは、揶揄われていたと気づく。
「なっ……もう、いいです! 帰りますわ!!」
エリザベスは、ハインツの腕にかけていた手を解き方向転換しようとして失敗した。さっと腰へと回されたハインツの腕に固定され前へと進む事が出来ない。
「ハインツ様! 離してください」
「それは出来ませんね。やっと貴方に会えたのですから、みすみす逃しはしません。何年、エリザベスが他の男の手を取るのを、指くわえて見てたと思っているのですか」
「えっ? 指くわえて見てた?」
それではまるで、ずっと私の手を取りたかったと言っているようなものじゃない。
ハインツの言葉にエリザベスの鼓動が速くなっていく。
「だってそうでしょう。貴方は、私の事など眼中に無かったでしょうしね。しかも邪険にされてなお、ウィリアム、ウィリアムと、本当、毎度どうしてやろうかと思いましたよ」
「それは……そうでございましょう。ウィリアム様は、婚約者だった訳ですし……はい……」
なぜ私が罪悪感を覚えねばならないのかと思いつつ、言葉が尻窄まりになっていく。
「確かに、他の男には目もくれなかった貴方は、令嬢の鑑だとも言えますね。だからこそ、少々幼稚な手段を取ってしまった。嫌いは好きの反対とも言いますし、貴方を狙っていた男共といっしょにされるより、憎まれようと貴方の心に残る存在になりたかったのですよ」
ハインツの言葉が、エリザベスの心にストンっと落ちてくる。
確かに意地悪な言葉を投げられた事もあった。しかし、その裏にひそむ優しさに気づいてしまえば、以前のようにハインツを嫌いにはなれない。
「そうだとしても、ハインツ様が言った言葉、忘れた訳ではありませんのよ。着ていたドレスを馬鹿にされたこともありましたわね」
「ウィリアムの色をまとうエリザベスを見たくなかったと言ったらどうしますか?」
「えっ?」
「貴方に黄色や水色のドレスを着てもらいたくなかった」
視線をそらし、ボソっとつぶやかれたハインツの言葉に笑みがこぼれる。
ウィリアムの婚約者だった時は、彼の髪色に合わせた黄色や瞳の色と同じ水色のドレスを着る事が多かった。それに嫉妬していたとも取れる発言にエリザベスの心がフワフワする。
「ふふふ、ハインツ様ったら耳まで真っ赤ですわよ」
「エリザベス……、さっきの意趣返しですか?」
「さぁ、どうでしょう。ただ、ハインツ様って意外と可愛らしいのねって」
「エリザベス、良い度胸していますね。では、私も遠慮はしません」
「えっ!? ハインツ様?」
腰を抱いていた手がパッと離れ、目の前に立つハインツが礼をする。その流れるような所作に見惚れている間に、ゆったりとしたワルツが流れ出した。
「エリザベス、踊ってくださいますか?」
差し出された手に手を重ねようかエリザベスが逡巡している間に、強引に手をハインツにつかまれホールの真ん中へと連れ出されていた。
「ハインツ様、強引ですわ。私、まだ許可してません」
「そうですか? 私には踊りたくて仕方ないように見えましたが」
「どう言う意味ですの? 踊りたいなんて一言も言ってませんわ」
「そうですね。確かに、エリザベスは一度もダンスを踊りたいと言ったことはなかった。ただ、心の中では、ずっと踊りたいと思っていたのではありませんか? ダンスの名手である貴方なら尚更だ」
「いいえ、ダンスの名手などではありませんわ。人前で踊った事すらありませんのに……」
人前で踊った事がない。それは紛れもない事実だった。
「ウィリアムと他の令嬢が踊る姿を見つめる貴方は、いつも寂しそうだった。本来であれば、婚約者がいる男が、婚約者以外の令嬢と踊るなど許される話ではない。しかし、ウィリアムは王族という理由だけで、気に入った女性達とのダンスに興じていた」
ウィリアムが他の令嬢の手を取るたび、彼らのダンスをただ壁際で眺めることしか出来なかった。
いつだったかウィリアムに言われた事があった。『エリザベスのダンスは下手過ぎて、一緒に踊るのが恥ずかしい』と。
だからこそ、ウィリアムが他の令嬢の手を取るのは仕方がないことなのだと、エリザベスはあきらめていた。
「仕方がなかったのです。私にウィリアム様とダンスを踊れるだけの技術がなかっただけの話です」
「本当にそうでしょうか? 周りを見てご覧なさい。皆、貴方のダンスに見惚れている」
ステップとステップの間にターンをしながら、周りを見回せば、確かに大勢の人達がこちらに視線を向けている。時折り、熱いため息が聴こえてくるのは気のせいではないだろう。
「ふふふ、皆さまが見惚れているのは、ハインツ様の方ですわ。本当、ダンスがお上手でいらっしゃる」
先ほどから踊っていて感じるのだが、巧みな足さばきに、的確なリードで、ハインツとのダンスは、実に踊りやすいのだ。
「エリザベスにほめられるのはとても嬉しいのですが、今は私のことではありません。貴方と踊っていればわかりますよ。どれだけの練習を積み重ねて来たのかが。どんな音楽が流れても、自然と身体が動く。身体がステップを覚えるまで叩き込まなければ、そんなに自然に踊れませんよ」
ウィリアムとダンスを踊れる日を夢見て、エリザベスは練習を欠かしたことはなかった。どんなに難しい音楽だろうと身体が覚えるまでステップを叩き込んだ。
ただ、どんなに努力をしてもウィリアムと踊る事は出来なかった。
壁の花となり眺める事しか出来なかった報われない日々が、やっと終わる。そして今、手と手を重ね踊る目の前の彼は、エリザベスの努力に気づいてくれていた。
それがなによりも嬉しかった。
「ハインツ様、ありがとうございます。やっと報われましたわ。長年の想いが」
「そうまでして、ウィリアムと踊りたかったのかと思うと嫉妬で気が狂いそうになりますけどね。だからこそ、エリザベスと踊る初めての相手は、私でないと許せない。貴方の初めては、全て私であって欲しいと思うのは、贅沢な願いですか?」
キュッと握られた手から熱が伝わり、エリザベスの全身を熱くさせる。
夢見心地なダンスを踊りながら、真っ黒な瞳の奥で見え隠れする本心をもっと知りたいと思っていた。