ベッド―令和で恋する昭和女―
焼き場で私は3号のタルト生地の型抜きを終えると、それを焼く作業に入った。
すでに電子オーブンは予熱されている。
(やっぱり中島くんは手順がいいな)
そんなことを思いながら型枠に入ったタルト生地を電子オーブンに入れていく。
電子オーブンにタルト生地を入れ終えると、業務用の冷蔵庫に貼り付けてある工程表に目を通した。
工程表にはその日のうちに作るべくありとあらゆる洋菓子の名前が並んでいる。
私はエプロンのポケットからペンを取り出すと、
「3号タルト生地」
という文字にチェックを入れた。
次の作業を決めると、私はペンをエプロンのポケットに戻した。
私が「なめらかチーズプリン」と「ふんわりかぼちゃプリン」を作り終え、『リラの工房』で「ガレット」と呼ばれるクッキー生地を機械で延ばしているときだった。
焼き場の扉が開いた。
中島くんと加納くんが姿を現した。
二人がお昼休憩に入ってきっかり45分が経過していた。
中島くんと加納くんがほぼ同時に私に向かって礼をする。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
私はガレット生地を延ばしていた機械を停めると、ごまかすよう笑みを浮かべた。
「お疲れ様。私の確認不足でおかしな時間に休憩を取らせてごめんね」
中島くんは首を左右に振る。
「いえ、気が付かなかった自分が悪いです。事前に、『休憩は取るように』とおっしゃられてましたので」
「中島くんは真面目だよね」
「自分は真面目なんじゃなくて臆病なだけです」
「またまたご謙遜を」
中島くんと私のやり取りを、加納くんが不安そうに見ている。
「初日なのに、『休憩をいただきたい』なんて言った自分がおかしかったです」
「違うよ。加納くんが言ってくれなかったら、中島くんも私も気が付かなかったんだから」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。それに6時間以上働いているんだから、45分間の休憩は取ってもらわなきゃね」
「……はい」
「あとうちの仕事は体力使うから、お昼ご飯は大切だよ。しっかりと食べないとすぐにバテる。とくに焼き場は調理場や売り場と違って熱地獄だからカロリー摂らないと倒れるよ。私はカロリーの塊だからダイエットになってちょうどいいけどね」
私は自嘲しながら、エプロンの上から腹を叩いた。
20年前よりはるかに出っ張った腹を、
「ガハハハ」
と笑いながら右の手で打ったのだ。
「ダイエットの必要はありません!」
加納くんが大声を出した。
加納くんの目は真剣だった。
私は一瞬、加納くんが怒っているのかと思った。
それほど加納くんの目には鬼気迫るものがあった。
焼き場に静寂が訪れる。
中島くんが沈黙を破るように言葉を出す。
「タルト生地の焼き上げとプリンの仕上げをありがとうございます。ガレットの生地延ばしですよね? あとは自分がやります」
「そ、そう? じゃあ、私も休憩の続きをもらうね」
「わかりました」
中島くんは加納くんの肩に手を置く。
「手を洗って作業に戻ろうか。ガレットの生地の延ばし方を教えるから」
「あ、はい」
加納くんは急に大声を出したことを恥じているようだった。
加納くんは視線を斜め下に向けていた。
中島くんが笑う。
「容量はさっきのタルト生地と同じだよ。材料が違うけど、使う機械は同じだよ」
「ガレットってそば粉で作ったクレープのようなものですよね?」
「よく知ってるね。でも、『リラの工房』では小麦粉を使って作るんだ」
「知識不足なんですが、卵とかサラダとかも載せるんですか?」
「確かに卵は使うけど、そんな本格的なものじゃないよ。小麦粉を延ばして形成して型抜きして、卵黄を刷毛で塗って焼く。それで完成だよ」
「……それってクッキーじゃないですか?」
「ハハハ。そうだね。僕も『リラの工房』に入るまで、本物のガレットのことを知らなかったから。ある時、知り合いにうちのガレットをプレゼントで渡したら、『これクッキーじゃん』って言われて初めて知ったんだ。しかし、加納くんは物知りだな」
「いえ、自分はただ雑学が好きなだけです」
「それを物知りって言うんだよ」
洗い場で笑いながら手を洗う中島くんと加納くんを見て、私は安堵していた。
(中島くんと加納くんの年齢が近くてよかった。気が合うみたい。やっぱり同姓の中島くんを加納くんの指導に当たらせて正解だった)
と思った瞬間、私はあることに気が付いた。
(さっき、中島くんの一人称が『僕』になってなかったか? 中島くんってプライベートでの一人称は『僕』なのか?)
中島くんが『僕』という言葉を使うのを、私は初めての聞いた気がした。
いや、
「初めての気がした」
のではない。
初めてだ。
たった一日、いや、たった4時間ほどの付き合いで『僕』という一人称を引き出した加納くんを少しだけ、
(ずるい)
と思ってしまった。
(私は4年間も中島くんと接してきたのに)
とも、思ってしまっていた。
すでに電子オーブンは予熱されている。
(やっぱり中島くんは手順がいいな)
そんなことを思いながら型枠に入ったタルト生地を電子オーブンに入れていく。
電子オーブンにタルト生地を入れ終えると、業務用の冷蔵庫に貼り付けてある工程表に目を通した。
工程表にはその日のうちに作るべくありとあらゆる洋菓子の名前が並んでいる。
私はエプロンのポケットからペンを取り出すと、
「3号タルト生地」
という文字にチェックを入れた。
次の作業を決めると、私はペンをエプロンのポケットに戻した。
私が「なめらかチーズプリン」と「ふんわりかぼちゃプリン」を作り終え、『リラの工房』で「ガレット」と呼ばれるクッキー生地を機械で延ばしているときだった。
焼き場の扉が開いた。
中島くんと加納くんが姿を現した。
二人がお昼休憩に入ってきっかり45分が経過していた。
中島くんと加納くんがほぼ同時に私に向かって礼をする。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
私はガレット生地を延ばしていた機械を停めると、ごまかすよう笑みを浮かべた。
「お疲れ様。私の確認不足でおかしな時間に休憩を取らせてごめんね」
中島くんは首を左右に振る。
「いえ、気が付かなかった自分が悪いです。事前に、『休憩は取るように』とおっしゃられてましたので」
「中島くんは真面目だよね」
「自分は真面目なんじゃなくて臆病なだけです」
「またまたご謙遜を」
中島くんと私のやり取りを、加納くんが不安そうに見ている。
「初日なのに、『休憩をいただきたい』なんて言った自分がおかしかったです」
「違うよ。加納くんが言ってくれなかったら、中島くんも私も気が付かなかったんだから」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。それに6時間以上働いているんだから、45分間の休憩は取ってもらわなきゃね」
「……はい」
「あとうちの仕事は体力使うから、お昼ご飯は大切だよ。しっかりと食べないとすぐにバテる。とくに焼き場は調理場や売り場と違って熱地獄だからカロリー摂らないと倒れるよ。私はカロリーの塊だからダイエットになってちょうどいいけどね」
私は自嘲しながら、エプロンの上から腹を叩いた。
20年前よりはるかに出っ張った腹を、
「ガハハハ」
と笑いながら右の手で打ったのだ。
「ダイエットの必要はありません!」
加納くんが大声を出した。
加納くんの目は真剣だった。
私は一瞬、加納くんが怒っているのかと思った。
それほど加納くんの目には鬼気迫るものがあった。
焼き場に静寂が訪れる。
中島くんが沈黙を破るように言葉を出す。
「タルト生地の焼き上げとプリンの仕上げをありがとうございます。ガレットの生地延ばしですよね? あとは自分がやります」
「そ、そう? じゃあ、私も休憩の続きをもらうね」
「わかりました」
中島くんは加納くんの肩に手を置く。
「手を洗って作業に戻ろうか。ガレットの生地の延ばし方を教えるから」
「あ、はい」
加納くんは急に大声を出したことを恥じているようだった。
加納くんは視線を斜め下に向けていた。
中島くんが笑う。
「容量はさっきのタルト生地と同じだよ。材料が違うけど、使う機械は同じだよ」
「ガレットってそば粉で作ったクレープのようなものですよね?」
「よく知ってるね。でも、『リラの工房』では小麦粉を使って作るんだ」
「知識不足なんですが、卵とかサラダとかも載せるんですか?」
「確かに卵は使うけど、そんな本格的なものじゃないよ。小麦粉を延ばして形成して型抜きして、卵黄を刷毛で塗って焼く。それで完成だよ」
「……それってクッキーじゃないですか?」
「ハハハ。そうだね。僕も『リラの工房』に入るまで、本物のガレットのことを知らなかったから。ある時、知り合いにうちのガレットをプレゼントで渡したら、『これクッキーじゃん』って言われて初めて知ったんだ。しかし、加納くんは物知りだな」
「いえ、自分はただ雑学が好きなだけです」
「それを物知りって言うんだよ」
洗い場で笑いながら手を洗う中島くんと加納くんを見て、私は安堵していた。
(中島くんと加納くんの年齢が近くてよかった。気が合うみたい。やっぱり同姓の中島くんを加納くんの指導に当たらせて正解だった)
と思った瞬間、私はあることに気が付いた。
(さっき、中島くんの一人称が『僕』になってなかったか? 中島くんってプライベートでの一人称は『僕』なのか?)
中島くんが『僕』という言葉を使うのを、私は初めての聞いた気がした。
いや、
「初めての気がした」
のではない。
初めてだ。
たった一日、いや、たった4時間ほどの付き合いで『僕』という一人称を引き出した加納くんを少しだけ、
(ずるい)
と思ってしまった。
(私は4年間も中島くんと接してきたのに)
とも、思ってしまっていた。