ベッド―令和で恋する昭和女―
2021年(令和3年)6月下旬。
青年が『リラの工房』を訪ねて来た翌週の月曜日の18時半。
『リラの工房』の調理場に青年の姿があった。
頭に茶色のバンダナ。
服は白いコックコート。
腰にはバンダナと同じ生地で同じ色のエプロンを締めている。
「いかにもケーキ屋さんです」
と主張するこのバンダナにコックコート、エプロンは『リラの工房』で働く人全員に支給されているものだ。
『リラの工房』の制服のようなものである。
事実、青年の横に立つ店長も、店長の横にぼんやりと立つ私も同じ服装をしている。
青年はマスクをしているので表情を読み取ることは不可能であった。
が、その目付きは真剣そのものである。
店長が調理場にいる従業員に声をかける。
従業員といっても私以外は全員パートタイムであるが。
「みんな、手を止めてくれ」
輪切りにしたキウイをタルト生地に載せている女性は顔を上げ、マドレーヌを個包装している男性は手を止め、パレットナイフを手にした女性がホールケーキの載った回転台を止めた。
「今日からこの店で働くことになった加納雄介くんだ。加納くん、前に出て挨拶をして」
店長の横で屹立していた青年、つまりは加納くんが一歩、脚を前に踏み出す。
「今日からお世話になります加納雄介と申します。みなさまにはいろいろとご迷惑をおかけすると思いますが、一生懸命に頑張りたいと思いますのでよろしくお願いします」
加納くんは深々と頭を下げた。
が、従業員たちは小さく、
「お願いします」
と返事をするとそれぞれの仕事に戻ってしまった。
加納くんは店長を見た。
「自分、なにかまずいことを言ったでしょうか?」
「いや、いつもの新人に対する反応だ」
「面接の時にも言いましたが、自分、パートタイムをするのが初めてなんです」
「ほかの店の色に染まってないってことだろう? いいことじゃないか。うちはきみのような人間を歓迎している」
店長は笑った。
笑顔のまま店長が私に目線を送る。
店長は上背があるので私を見降ろす形になる。
「加納くんの処遇を任せるよ」
「私にですか? いいんですか?」
「うん。何かいい案があったら聞かせてくれ」
店長が唐突に右手で右の腿を叩いた。
パン、と乾いた音が響く。
店長が何かを思い出した時の癖であった。
「言うのを忘れてた。加納くんは将来、独立して洋菓子店をやりたいわけではないらしい。この店には純粋にパートタイムとして働きたくて応募してきたそうだ」
私は店長と加納くんの面接の日のことを思い出していた。
『リラの工房』のパートタイム募集を新聞の折り込みチラシで見つけて、雨が降る中『リラの工房』の売り場に現れた青年――加納雄介くんはその3日後に店長との面接に漕ぎつけた。
店長と加納くんは30分ほどの面接をした。
勿論、個人情報の関係で私は立ち会っていない。
面接が終わり加納くんが帰宅したあと、店舗に戻って来た店長が言った。
「あの子は使えるよ。採ろうと思う」
店長を除くと、『リラの工房』には正社員が2人しかいない。
私はそのうちの1人だが、製造と販売が主たる業務なので、事務関係はタッチしていない。
なので、加納くんへの採用通知は事務方の人が送った。
後日、私は改めて店長から件の青年を採用したことを告げられた。
が、加納くんの志望動機までは聞いていなかった。
私は考えた。
(加納くんはお金が目的でこの店を選んだんだ。パティシエになりたいとか、将来は自分の店を持ちたいとか夢を見てる人じゃないんだ)
私は店長を見上げた。
「私から提案があります。中島くんに加納くんの担当をさせたらどうでしょうか?」
「ほう」
「中島くんなら加納くんとも年齢が近いでしょうから話が合うと思うんです。それに……あの……」
「わかってる。中島くんは前にある種の挫折をしたからな。自信を取り戻すいいチャンスかもしれん。まぁ、私としてはあれを彼の挫折とは思っていないんだがな」
中島くんは主に焼き場をメインに担当している男性だ。
『リラの工房』に入って4年目になる。
中島くんは他人と馴れ合う性格ではない。
私語が少ない。
しかし、仕事に取り組む姿勢は真面目だ。
確かに、私語をするところをほとんど見たことがないが、
「おはようございます」
「お疲れ様です」
などの挨拶はしっかりとするし、言葉遣いも丁寧だ。
私は中島くんを買っていた。
店長の言う、「中島くんの挫折」は運が悪かったとしか言いようがないと私も思っている。
2年前、中島くんは1人の新人男性の教育を任された。
その新人男性は優秀だった。
優秀、という言葉で片付けるにはありきたりな気がする。
『リラの工房』のありとあらゆる仕事を見て、説明を聞いて実践できるような人間であった。
『リラの工房』に入って2年目の中島くんにその彼の担当を任せることにしたのは私だ。
新人男性の教育は私がすることになっていた。
店長が私を名指ししたのだ。
が、私が拒んだ。
別に新人男性が嫌いだったからではない。
中島くんはコミュニケーションが不得手だ。
ゆえに他の従業員からの評価が低いように思えていた。
前述したが、私は中島くんを買っていたので歯がゆい気持ちでいた。
(中島くんが新人を育てれば周囲の人からの評価も上がるだろうし、中島くん自身も言動が積極的になり、もっと成長するかもしれない)
押しつけがましい考えである。
裏を返せば、それだけ『リラの工房』の中で中島くんの存在価値を高めたいと私は考えていたのだ。
そういう理由があり、
「私よりも中島くんのほうが適任だと思います」
と、私は進言した。これが間違いだった。
新人男性は焼き場にいる中島くんに指導してもらうことになった。
新人男性は中島くんの教えをグングンと吸い取り、2週間でスポンジケーキと焼き菓子類の焼き方を完璧にマスターした。
ある日のことだった。
私は中島くんと二人で休憩室にいた。
中島くんがぽつりと言った。
「彼に教えることは何もないです。自分が半年かかって習得した過程を彼は2週間で身に着けました。正直、ショックです」
かける言葉がなかった。
その後、新人男性は『リラの工房』で洋菓子の土台となる焼き菓子の作り方や生クリームを使ったデコレーション、ゼリー作り、各種チョコレート作り、商品の品質管理などのありとあらゆるノウハウを身体に叩き付けた。
『リラの工房』の中で、製造でも接客でも彼に匹敵するものはいなかった。
実際、私自身も、
(私って彼に比べて『リラの工房』にどれほど貢献しているんだろう?)
と考えてしまったほどだ。
新人男性が『リラの工房』に入って1年。
店長が彼に言った。
「とっとと出て行ってくれないか。この店にとって君は脅威だ」
冷たい言い方であったかもしれないが、それは店長から下された免許皆伝のようなものだった。
彼は店長の言葉を素直に受け止め、『リラの工房』を去った。
彼が『リラの工房』を出て行って、さらに半年が経過した時のことだ。
店長が呟くように言った。
「あいつ、今、ベルギーで頑張ってるらしい」
私は思った。
(次元が違う)
と。
あまりに優秀過ぎる人を教えたことで中島くんは酷く落ち込んでいた。
中島くんもそれなりにできている。
あの彼があまりにも出来過ぎていたのだ。
今回、加納くんの指導を中島くんに当たらせることを提案したのは、中島くんに自信を取り戻して欲しいという思いがあったからだ。
それに、
(中島くんに成長して欲しい)
という私の勝手な思いで、指導させ、その結果、中島くんが落ち込んでしまったということに負い目もあった。
(成長と同時に自信も戻して欲しい)
という私個人の思惑もあった。
店長は即決した。
「よし、中島くんに加納くんの指導してもらおう」
私は自分の案がすぐに受け入れられたことを純粋に嬉しく思った。
青年が『リラの工房』を訪ねて来た翌週の月曜日の18時半。
『リラの工房』の調理場に青年の姿があった。
頭に茶色のバンダナ。
服は白いコックコート。
腰にはバンダナと同じ生地で同じ色のエプロンを締めている。
「いかにもケーキ屋さんです」
と主張するこのバンダナにコックコート、エプロンは『リラの工房』で働く人全員に支給されているものだ。
『リラの工房』の制服のようなものである。
事実、青年の横に立つ店長も、店長の横にぼんやりと立つ私も同じ服装をしている。
青年はマスクをしているので表情を読み取ることは不可能であった。
が、その目付きは真剣そのものである。
店長が調理場にいる従業員に声をかける。
従業員といっても私以外は全員パートタイムであるが。
「みんな、手を止めてくれ」
輪切りにしたキウイをタルト生地に載せている女性は顔を上げ、マドレーヌを個包装している男性は手を止め、パレットナイフを手にした女性がホールケーキの載った回転台を止めた。
「今日からこの店で働くことになった加納雄介くんだ。加納くん、前に出て挨拶をして」
店長の横で屹立していた青年、つまりは加納くんが一歩、脚を前に踏み出す。
「今日からお世話になります加納雄介と申します。みなさまにはいろいろとご迷惑をおかけすると思いますが、一生懸命に頑張りたいと思いますのでよろしくお願いします」
加納くんは深々と頭を下げた。
が、従業員たちは小さく、
「お願いします」
と返事をするとそれぞれの仕事に戻ってしまった。
加納くんは店長を見た。
「自分、なにかまずいことを言ったでしょうか?」
「いや、いつもの新人に対する反応だ」
「面接の時にも言いましたが、自分、パートタイムをするのが初めてなんです」
「ほかの店の色に染まってないってことだろう? いいことじゃないか。うちはきみのような人間を歓迎している」
店長は笑った。
笑顔のまま店長が私に目線を送る。
店長は上背があるので私を見降ろす形になる。
「加納くんの処遇を任せるよ」
「私にですか? いいんですか?」
「うん。何かいい案があったら聞かせてくれ」
店長が唐突に右手で右の腿を叩いた。
パン、と乾いた音が響く。
店長が何かを思い出した時の癖であった。
「言うのを忘れてた。加納くんは将来、独立して洋菓子店をやりたいわけではないらしい。この店には純粋にパートタイムとして働きたくて応募してきたそうだ」
私は店長と加納くんの面接の日のことを思い出していた。
『リラの工房』のパートタイム募集を新聞の折り込みチラシで見つけて、雨が降る中『リラの工房』の売り場に現れた青年――加納雄介くんはその3日後に店長との面接に漕ぎつけた。
店長と加納くんは30分ほどの面接をした。
勿論、個人情報の関係で私は立ち会っていない。
面接が終わり加納くんが帰宅したあと、店舗に戻って来た店長が言った。
「あの子は使えるよ。採ろうと思う」
店長を除くと、『リラの工房』には正社員が2人しかいない。
私はそのうちの1人だが、製造と販売が主たる業務なので、事務関係はタッチしていない。
なので、加納くんへの採用通知は事務方の人が送った。
後日、私は改めて店長から件の青年を採用したことを告げられた。
が、加納くんの志望動機までは聞いていなかった。
私は考えた。
(加納くんはお金が目的でこの店を選んだんだ。パティシエになりたいとか、将来は自分の店を持ちたいとか夢を見てる人じゃないんだ)
私は店長を見上げた。
「私から提案があります。中島くんに加納くんの担当をさせたらどうでしょうか?」
「ほう」
「中島くんなら加納くんとも年齢が近いでしょうから話が合うと思うんです。それに……あの……」
「わかってる。中島くんは前にある種の挫折をしたからな。自信を取り戻すいいチャンスかもしれん。まぁ、私としてはあれを彼の挫折とは思っていないんだがな」
中島くんは主に焼き場をメインに担当している男性だ。
『リラの工房』に入って4年目になる。
中島くんは他人と馴れ合う性格ではない。
私語が少ない。
しかし、仕事に取り組む姿勢は真面目だ。
確かに、私語をするところをほとんど見たことがないが、
「おはようございます」
「お疲れ様です」
などの挨拶はしっかりとするし、言葉遣いも丁寧だ。
私は中島くんを買っていた。
店長の言う、「中島くんの挫折」は運が悪かったとしか言いようがないと私も思っている。
2年前、中島くんは1人の新人男性の教育を任された。
その新人男性は優秀だった。
優秀、という言葉で片付けるにはありきたりな気がする。
『リラの工房』のありとあらゆる仕事を見て、説明を聞いて実践できるような人間であった。
『リラの工房』に入って2年目の中島くんにその彼の担当を任せることにしたのは私だ。
新人男性の教育は私がすることになっていた。
店長が私を名指ししたのだ。
が、私が拒んだ。
別に新人男性が嫌いだったからではない。
中島くんはコミュニケーションが不得手だ。
ゆえに他の従業員からの評価が低いように思えていた。
前述したが、私は中島くんを買っていたので歯がゆい気持ちでいた。
(中島くんが新人を育てれば周囲の人からの評価も上がるだろうし、中島くん自身も言動が積極的になり、もっと成長するかもしれない)
押しつけがましい考えである。
裏を返せば、それだけ『リラの工房』の中で中島くんの存在価値を高めたいと私は考えていたのだ。
そういう理由があり、
「私よりも中島くんのほうが適任だと思います」
と、私は進言した。これが間違いだった。
新人男性は焼き場にいる中島くんに指導してもらうことになった。
新人男性は中島くんの教えをグングンと吸い取り、2週間でスポンジケーキと焼き菓子類の焼き方を完璧にマスターした。
ある日のことだった。
私は中島くんと二人で休憩室にいた。
中島くんがぽつりと言った。
「彼に教えることは何もないです。自分が半年かかって習得した過程を彼は2週間で身に着けました。正直、ショックです」
かける言葉がなかった。
その後、新人男性は『リラの工房』で洋菓子の土台となる焼き菓子の作り方や生クリームを使ったデコレーション、ゼリー作り、各種チョコレート作り、商品の品質管理などのありとあらゆるノウハウを身体に叩き付けた。
『リラの工房』の中で、製造でも接客でも彼に匹敵するものはいなかった。
実際、私自身も、
(私って彼に比べて『リラの工房』にどれほど貢献しているんだろう?)
と考えてしまったほどだ。
新人男性が『リラの工房』に入って1年。
店長が彼に言った。
「とっとと出て行ってくれないか。この店にとって君は脅威だ」
冷たい言い方であったかもしれないが、それは店長から下された免許皆伝のようなものだった。
彼は店長の言葉を素直に受け止め、『リラの工房』を去った。
彼が『リラの工房』を出て行って、さらに半年が経過した時のことだ。
店長が呟くように言った。
「あいつ、今、ベルギーで頑張ってるらしい」
私は思った。
(次元が違う)
と。
あまりに優秀過ぎる人を教えたことで中島くんは酷く落ち込んでいた。
中島くんもそれなりにできている。
あの彼があまりにも出来過ぎていたのだ。
今回、加納くんの指導を中島くんに当たらせることを提案したのは、中島くんに自信を取り戻して欲しいという思いがあったからだ。
それに、
(中島くんに成長して欲しい)
という私の勝手な思いで、指導させ、その結果、中島くんが落ち込んでしまったということに負い目もあった。
(成長と同時に自信も戻して欲しい)
という私個人の思惑もあった。
店長は即決した。
「よし、中島くんに加納くんの指導してもらおう」
私は自分の案がすぐに受け入れられたことを純粋に嬉しく思った。