ベッド―令和で恋する昭和女―
 店長から許可を得た私は、加納くんを伴って調理場から移動していた。
 移動先は従業員たちから焼き場と呼ばれる場所だ。

 焼き場、と呼称される理由は簡潔である。
 焼き場にはいくつもの電気釜が設置されていた。
 その電気釜でケーキの生地やシュークリームのシュー皮、タルト生地、保存の効く焼き菓子類を常時焼いていた。
 ゆえに焼き場、と呼ばれている。実に安直である。

 加納くんは真っ直ぐに前を向いて歩いている。
 なぜか顔を私に見せない。
 なぜだ。

 疑問に思いながら、私は上ずった声を出す。
「今から紹介する人は決して悪い人ではないから。いい人だから」
「はい」
 加納くんは私を見ない。

 私は直感的に理解する。
(嫌われたんだろうな)

 いいだろう。
 他人(ひと)に好かれるためにここで働いているわけではない。
 お金を得るために働いているのだ。

 それに私は『リラの工房』の従業員たちから嫌われているような気はしていた。
 特に女性従業員から煙たがれていると感じている。
 当然だ。おばさんだし、いつも小言ばかり言っている。

 私は正社員という立場上、どうしても厳しい言葉を投げ付けざるを得ない立場にある。
 
「接客態度がなっていない」
「ケーキのデコレーションがおかしい。青果の配色がなっていない。色合いがおかしい」
「小麦粉と米粉は絶対に同じ場所に置くな。アレルギーを持つお客さんにとっては生き死にの問題なんだ」

 こんな言葉を投げ付けていれば嫌われて当然である。

 私は、
(嫌われるのも仕事のうちだ)
 と腹を括っていた。

 (嫌われるだけ(・・・・・・)でお金がもらえるなら、お得ではないか)
 と開き直っている部分もあった。

 しかし、そんな私でも、
(中島くんには自信を取り戻して欲しい)
 という願望はあった。

 中島くんが自信を持って加納くんと相対するためにも、加納くんには穏やかにいて欲しかった。

(私のためではなく、中島くんのためなんだ)
 私はそんなふうに自身に言い聞かせていた。

 調理場から焼き場まで10秒に満たない移動時間であったが、私は加納くんが明るい仕草で中島くんと接してくれることを祈った。

 『リラの工房』は売り場と調理場が隣接していた。
 だが、焼き場は売り場と調理場から少しだけ離れた場所に位置している。

 『リラの工房』の焼き場は小さな工場のような雰囲気を与える。
 この中で甘い洋菓子を作ってますよ、と言われなければネジ工場と間違われるかもしれない。

 焼き場は食品を取り扱う上での衛生管理はしっかりとしているので決して不衛生ではない。

 私は焼き場のドアノブに手を伸ばした。
 ドアノブを引っ張った瞬間、熱気が私たちの全身を襲う。
 熱い。

 上背のある加納くんを見上げる。
 加納くんは全く表情を動かしていなかった。

(熱くないのか?)

 私は視線を焼き場の中に戻すと努めて元気な声を出した。
「中島くん、新しい子を連れてきたよ」
 まるで若くてかわいい女性を紹介するかのように言ってしまった。

 正確に言えば、
(若くてかわいい)
 ではなく、
(若くてかっこいい)
 であるが。
 今は私の主観などどうでもいい。

 反省しながら、私は焼き場で働く中島くんを見た。

 中島くんは銅鍋と格闘していた。
 同鍋の大きさは成人男性が両手で囲えるほどはある。
 家庭用のものではなく、業務用の巨大な同鍋だ。

 銅鍋の下ではガスコンロが火を吹いている。

 中島くんは左右の手に軍手をはめていた。
 左手で銅鍋の取手を持ち、右手にはこちらも業務用の巨大なホイッパーを持ってさかんに動かしている。

 今、中島くんは巨大な銅鍋でカスタードクリームを作っているのだ。

 私は中島くんに近付く。
「作業中、悪いね」
「いえ、大丈夫です」
 中島くんはさらに盛大に右手を動かしながら喘ぐように言った。
 上長である私が声をかけても、中島くんは作業の手を止めない。

 カスタードクリームを作っている最中は手を止めることができない。

 巨大なホイッパーを止めて、攪拌作業を怠ると銅鍋の中のカスタードクリームが焦げてしまう。
 焦げたカスタードクリームは使い物とならなくなり、廃棄対象となる。

 私は中島くんが作業を停止することができないことを承知で口を開いた。
「新しく入った加納くん。加納くん、こちら中島くん。今日からいろいろ中島くんに教えてもらいなさい」

「よろしくお願いします!」

 突然、大声が焼き場に響いた。
 大声の主は加納くんだった。

 私は驚いた。

 中島くんも驚いたようだ。
 コンマ7秒だけ彼の右手が止まる。

 が、中島くんはすぐに右手を大きく動かし直すと、
「こちらこそよろしくお願いします」
 と言った。

 私は長身の加納くんをまたまた見上げた。
 加納くんは何もなかったかのように先程と同じく能面のような顔に戻っていた。

(加納くんって体育系だったのか? 店長から少しでも履歴を聞けば良かった)

 私と加納くんの存在を気にしつつも、中島くんが一抱えもある銅鍋から身を離すと、ガスコンロの火を止めた。
 中島くんはそばにあったブランデーを手にすると、キャップ擦り切れいっぱいの中身を銅鍋に注いだ。
 焼き場中がアルコールの匂いで満たされる。

(まずいな)
 スッと鼻の中にアルコールの香りが通ると同時に私は思った。
(中島くんは体育系が苦手だったはずだ。加納くんと相性はいいかな?)

 ブランデーのキャップを閉めた時の中島くんの顔は困惑しているように見えた。

 一方、加納くんは無表情のままだった。

(大丈夫だろうか?)
 焼き場の蒸し暑さを感じながら、私は中島くんと加納くんの顔を交互に見た。
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