ベッド―令和で恋する昭和女―
 中島くんと加納くんの雰囲気がよくなったところで私は姿を消すことにした。
 お邪魔虫は早く退散するのだ。

「あとは若い二人でよろしくね。私は売り場と調理場をうろうろしてるから。何かあったら気軽に声をかけて。休憩は中島くんのタイミングで取って。加納くんは中島くんの言うことをよく聞くように」
 私の隣に立つ加納くんが直立したまま中島くんにお辞儀した。
「ご指導、お願いします」
 中島くんが口をパクパクと開けたり閉じたりしている。
 言いたいことはわかる。

 中島くんは心の中で愚痴でいるはずだ。
(どう教えればいいんだ?)

 私はドアノブに手をかけた。
「中島くんはいつも通り働けばいいから。加納くんはまずそれをよく見る。よく見て、真似して。真似ができなかったら聞いて。聞くことくらいできるよね?」
「はい、できます」
「じゃあ、時間まで頑張ってね」
「はい!」
 加納くんは返事がいいな、と思いながら私は焼き場をあとにした。

 私は調理場に戻った。
 調理場に戻ったはいいがやることがない。
 働く人間が多く仕事がないのだ。
 いや、ないことはない。あるのだが、私が手を出すとその人の仕事を奪ってしまうことになる。

 調理場の人間に、
(何をしに来たんだ)
 と内心で呟かれているであろうと感じていた。

 もうこの年齢になると他人様(ひとさま)にどんなふうに思われようと気にしなくなっていた。
 肝が太くなってきたんだろう。
 腹も太くなってきたし。
 
 私は店長のいる場所に行くことにした。
 本当は店長室と言いたいのだが『リラの工房』にそんなものはない。
 店長は古いパソコンが置かれた素材庫と呼ばれる場所にいる。
 素材庫と書いて「そざいこ」と読む。
 文字通り洋菓子類を作るにあたっての素材が置かれている。
 圧倒的に多いのは白い粉だ。
 残念ながら小さくて透明なパッケージには入っていない。
 巨大な茶色の粗雑な紙製の袋に白い粉たちは鎮座している。
 ケーキやタルト生地、保存の効く焼き菓子に使う普通の小麦粉だけではない。
 10種以上の様々な小麦粉が大量に袋詰めされ、大量に置かれている。
 『リラの工房』はケーキ屋なので一般家庭ではあまり目にしない小麦粉類も置いてある。

 素材庫は畳にして4畳ほどの広さだ。狭い。
 
 数種の茶色いの小麦粉の袋に交じって机と椅子が置かれている。
 机と椅子と言っても大層なものではない。
 子供の勉強机よりも粗末なものだ。
 椅子はパイプ椅子で、机はA4のノートを広げてメモ書きができる程度の大きさしかない。

 雑多で小さな場所に小さな机と椅子、そしてそこに齧りつくように背が高くて穏やかな店長が座っていた。

「埃は大丈夫なんですか?」
 私は店長に声をかけた。
 私を認めた店長は口角を上げた。私に視線を送る。
「このパソコンはね、タブレットにもなるしキーボードの取り外しもできる優れものなんだ。粉末が入るスキなんてこの子にはないよ」

 知っている。
 店長のパソコンがキーボードの取り外しができること。
 店長がそのパソコンを自慢に思っていること。
 しかし、そのパソコンは今ではちょっと古いことも、私は知っている。

 私はパソコンに目を落としたまま報告をした。
「加納くんを中島くんに預けて来ました」
 なんだそんなことか、と言わんばかりに店長は溜息を一つするとパソコンに目を戻した。

 私は少し決まりが悪くなって床を見た。
 床には白い粉が塊となって頑固にこびりついている。
 みんなが帰ったら今夜にでも激落ちくんを使って掃除するか、と思った。

 店長は取り外しができるというキーボードを叩いている。
「加納くんなら何をやらせても大丈夫だと思うよ。いい経歴を持ってるし、いい大学に行ってるみたいだし」
「加納くんは大学生なんですか」
「言ってなかったね。最近は個人情報がうるさいから、みんなにも言ってないからね。君には言ってもいいかな。君はあまり他人(ひと)に言わなそうだし」
「言うかもしれませんよ」
「君は言わない人だよ。ずっとそうじゃないか」
「まぁ」

 私自身の経歴を指摘されているようで恥ずかしくなり、話を逸らすことにした。
「大学生ともなると頭の良さが違いますよね。店長はベルギーがどこにあるかご存じですか?」
「ルクセンブルクの北にあるね」
「……ルクセンブルクってどこですか?」

 店長は空中に左右の手を出した。
 目の前の空間を使ってベルギーの位置を教えてくれるようだ。
「ここにドイツがあるとするだろう?」
 虚空を右手でなぞる。
「で、ここにフランスがあるとする」
 右手でなぞった宙の左側を左手で示した。
「この2つのでかい国の間にオランダとベルギー、ルクセンブルクがある。オランダはドイツよりでその隣にベルギーがある。で、その北側にあるのがルクセンブルクだ。ちなみにベルギーの対岸はイギリスだ」

 おそらく店長はかなり親切に中央ヨーロッパの地理を説明してくれている。が、私はほとんど理解できなかった。
 情けない。

 自分の無知を隠すようにベルギーの言語について語ることにした。
「ベルギー語なんてないんですね」
 店長は、
(当たり前だろう)
 という顔をした。
 私はまた恥をかいた。

「ところで例の彼はどうしてベルギーに行ったんですか?」
「本場で学びたかったそうだ」
「本場?」
「ベルギーはチョコレートの本場だからね」
「……」
「彼はチョコレート専門のパティシエになりたいんだそうだ」

 今の今までチョコレートの本場がベルギーだと知らなかった。
 チョコレートといえばイギリス。
 そんな思考が頭にあった。
 おそらく映画の観すぎだろう。

 私は自身の無知と常識知らずであることを恥じるばかりだ。

 仮にも洋菓子店に勤めている身である。
 ベルギーがチョコレートの本場であることなど知っていて当然であるような気がしてきた。
 そういえば、あの彼に『リラの工房』特製チョコレートの作り方を教えたのは私だ。
 チョコレート専門のパティシエになりたい、という願望を持っているのであれば基本的なチョコレートの作り方は熟知していたはずだ。

 私が彼にチョコレートの作り方を教えていた時、彼はまるで初めて教えを請うような態度をしていた。疑問など一切口にしなかった。

 得意になって、彼にテンパリングなどの技術を教授していた過去の私が恥ずかしくなってきた。

 私は店長の前で大きな吐息をするのだった。
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