ベッド―令和で恋する昭和女―
店長のいる素材庫から去ると、私は調理場と売り場に向かった。
相変わらず調理場にも売り場にも人手は足りている。
私は時計を見た。
時刻は午前9時30分ちょうど。
(昼食を摂るか)
『リラの工房』の朝は早い。
午前6時に従業員たちは働き出す。
開店は9時だ。
私は『リラの工房』から自宅まで近いので大丈夫なのだが、従業員の中には自転車で30分かけて通勤している者もいる。
自宅の町名と『リラの工房』の町名が同じ私としては頭が下がる思いだ。
電車通勤の者はいない。
『リラの工房』は駅から徒歩10分ほどの場所にあるが、小さな町のケーキ屋さんという立ち位置なのでそこまで苦労をして働く人間はいないようだ。
働き出す時間が早いと朝食の時間が早くなる。
朝食の時間が早くなると昼食の時間が早くなる。
店長と私、もう一人の事務方以外の従業員たちはパートタイムなので彼らの働く時間を鑑みて、私は休憩時間を取ることにしている。
パートタイムの人たちの休憩時間は11時から交代に取ることになっている。
11時から『リラの工房』は人手が足りなくなることが多い。
店が回らない、というほどではないのだが2、3人の人が欠けるだけで若干忙しくなる。
なので、私は午前9時30分くらいから昼食休憩に入ることが多い。
極端な例であるが、あまりにも多忙で午後3時にお昼休憩をする場合もあるにはある。
私は調理場と売り場に声をかける。
「お昼休憩をいただきます」
調理場と売り場から、それぞれ、
「はーい」
という返事がする。
従業員たちは店長が素材庫にいるのを知っている。
問題があればすぐに素材庫にいる店長の元に報告するだろう。
もっとも、みんなできた人たちばかりなので問題らしい問題が起こった記憶がない。
パートタイムの人たちが店長に何かを報告する、という光景を最近あまり目にしていない。
店長と違って『リラの工房』に常時いるわけではないので、私の知らないところでトラブルが起きていて、店長が穏便に済ませているだけなのかもしれないが。
(そもそも、私ってこの店に必要な存在なのかな?)
と思ってしまう。
思ってしまうと、自己嫌悪に陥ってしまうので、
(いやいや、私は私なりに頑張ってるじゃないか)
と打ち消す。
この歳になって、こんなふうに自分自身の存在意義を確かめなくてはいけないとは情けないが、こうもしないと心が折れそうになるので仕方ないと言い聞かせる。
私は頭を切り替える。
(今日のお昼はなんだろうな?)
私は『リラの工房』の建物の中の階段を使った。
階段を上ると従業員用の休憩室がある。
休憩室といっても簡単なものだ。
ガス給湯器とガスコンロ、シンク、電子レンジ、電子ポットのある小さな台所。
絨毯の敷かれた4畳半の部屋。
洋式のトイレ。
大学が初めて一人暮らしをするのにちょうどいいスペースかもしれない。シャワーはないが。
4畳半の部屋の真ん中には脚の短い机が置かれ、5つの座布団が転がっている。
部屋の隅にはラックが設置されている。
ラックには『リラの工房』のコックコートとバンダナ、エプロンのほかに様々な私服がハンガーで吊るされている。
この部屋は休憩室であると同時に着替え部屋でもあるのだ。
私は4畳半の机の上に置かれた箱に手を出した。
箱の中にはお弁当が入っている。仕出し弁当だ。
仕出し弁当の白米が詰まった容器を電子レンジに入れると温める。
温かい白米ができあがると、私は机の前に正座をしてマスクを外した。
両手を合わせる。
「いただきます」
独りぼっちの昼食の時間の始まりだ。
私がおかずの鮭の切り身を突いている時だった。
階段を上る音が聞こえる。
休憩室の出入口から恐る恐るといった雰囲気で顔を出す人物がいた。
主に売り場で働いている女性だった。
「すみません、お休みのところ」
女性が頭を下げる。
(すわ問題発生か)
と私は意気込んで、箸を置くとマスクを付けた。
ここのところ『リラの工房』で私の出番がほとんどないので少しやる気になってしまった。
もちろん職場で問題発生してはいけないとわかってはいるのだが。
私はなるべく穏やかな声を出す。
「大丈夫だよ。何かあった?」
「中島さんと加納くんが休憩を取りたいそうです」
「?」
「中島さんが、『自分は大丈夫ですが、加納くんが13時上がりなので休憩をもらいたいのですが』とおっしゃっています」
「しまった」
私は声を出した。
中島くんには、
「休憩は中島くんのタイミングで取って」
と確かに伝えた。
が、加納くんの上がりの時間まで考慮していなかった。
ほかの従業員が作業に入る前に、私はみんなのシフト表をチェックしていた。
シフト表には中島くんの今日の勤務時間が8時間で、加納くんの勤務時間が7時間であることは記されていた。
中島くんと加納くんには働く時間に隔たりがあるのを忘れていた。
(私のミスだ)
私は急いで立ち上がった。
「中島くんはどこにいる?」
「要件を伝えるとすぐに焼き場に戻ってしまいました。たぶん、焼き場に加納くんを一人にするのを不安になられたんだと思います」
「……ごめんなさい」
「え?」
「あ、独り言。すぐに私が行くからあなたは売り場に戻って」
「わかりました」
女性は怪訝そうな顔付きで一礼すると、階段を降りて行った。
私は立ち上がったまま仕出し弁当を赤い箱に戻した。
落ちるように階段を降りる。
調理場と売り場を駆け足で行く。
腰に巻いたエプロンの衣擦れの音が耳障りだ。
焼き場に着く。
焼き場のドアノブを乱暴に引いた。
焼き場では加納くんがタルトの土台となる生地の型取りしているところだった。
すぐそばに中島くんがいて、加納くんの手付きをじっと見ている。
私は頭を下げた。
「ごめんなさい。加納くんの今日の上がりが13時だってことをすっかり忘れてた。その作業、私が代わるから二人は今からお昼休憩に入って」
加納くんが手を止め、私を見た。
中島くんも私を見た。
(いくら後輩とはいえ、これは怒るだろうな)
と私は覚悟した。
が、二人は私の意に反して冷静だった。
中島くんが私に一礼する。
「急に呼び出したようなかたちになってすみません」
加納くんも倣うように詫びる。
「申し訳ありません。初日に厚かましいとは思っていたんですが、中島先輩に、『自分、今日は13時でお仕事を上がらせてもらうことになってます』と言ったんです」
中島くんも決まりが悪そうである。
「自分も言われるまでわかりませんでした」
もっと決まりが悪いのは私である。
「シフト表を見てたのに気が付かなかった私が悪いよ。タルトの型取りだよね。何号?」
「3号です」
中島くんが簡潔に答えた。
「あとは私がやるから、2人でお昼休憩に入って。中島くん、休憩室の使い方を加納くんに教えてあげて」
「わかりました」
中島くんは返事をすると、加納くんを促した。
「じゃあ、休憩に入ろうか」
「はい」
「今日って仕出し弁当は注文した?」
「してないです」
「店長が教えるのを忘れたのかな。近くにコンビニがあるけど教えようか」
「大丈夫です」
「本当に近いよ」
「お弁当、持って来てます」
「それならいいね」
「はい。昨日の残り物ですが」
「え、加納くんが作ったの?」
「はい」
「手作りじゃん。すげぇ」
そんなやり取りをしながら中島くんと加納くんは焼き場から出て行った。
私は焼き場にある手洗い場で、液体せっけんを使って左右の手のひらに泡を立てていた。
(もっとしっかりとしなきゃ。他人様に嫌われてもいいが、やるべきことはやらなきゃ駄目だ)
60秒間、手をそそいだのち、私は3号のタルト生地の型抜き作業に入った。
相変わらず調理場にも売り場にも人手は足りている。
私は時計を見た。
時刻は午前9時30分ちょうど。
(昼食を摂るか)
『リラの工房』の朝は早い。
午前6時に従業員たちは働き出す。
開店は9時だ。
私は『リラの工房』から自宅まで近いので大丈夫なのだが、従業員の中には自転車で30分かけて通勤している者もいる。
自宅の町名と『リラの工房』の町名が同じ私としては頭が下がる思いだ。
電車通勤の者はいない。
『リラの工房』は駅から徒歩10分ほどの場所にあるが、小さな町のケーキ屋さんという立ち位置なのでそこまで苦労をして働く人間はいないようだ。
働き出す時間が早いと朝食の時間が早くなる。
朝食の時間が早くなると昼食の時間が早くなる。
店長と私、もう一人の事務方以外の従業員たちはパートタイムなので彼らの働く時間を鑑みて、私は休憩時間を取ることにしている。
パートタイムの人たちの休憩時間は11時から交代に取ることになっている。
11時から『リラの工房』は人手が足りなくなることが多い。
店が回らない、というほどではないのだが2、3人の人が欠けるだけで若干忙しくなる。
なので、私は午前9時30分くらいから昼食休憩に入ることが多い。
極端な例であるが、あまりにも多忙で午後3時にお昼休憩をする場合もあるにはある。
私は調理場と売り場に声をかける。
「お昼休憩をいただきます」
調理場と売り場から、それぞれ、
「はーい」
という返事がする。
従業員たちは店長が素材庫にいるのを知っている。
問題があればすぐに素材庫にいる店長の元に報告するだろう。
もっとも、みんなできた人たちばかりなので問題らしい問題が起こった記憶がない。
パートタイムの人たちが店長に何かを報告する、という光景を最近あまり目にしていない。
店長と違って『リラの工房』に常時いるわけではないので、私の知らないところでトラブルが起きていて、店長が穏便に済ませているだけなのかもしれないが。
(そもそも、私ってこの店に必要な存在なのかな?)
と思ってしまう。
思ってしまうと、自己嫌悪に陥ってしまうので、
(いやいや、私は私なりに頑張ってるじゃないか)
と打ち消す。
この歳になって、こんなふうに自分自身の存在意義を確かめなくてはいけないとは情けないが、こうもしないと心が折れそうになるので仕方ないと言い聞かせる。
私は頭を切り替える。
(今日のお昼はなんだろうな?)
私は『リラの工房』の建物の中の階段を使った。
階段を上ると従業員用の休憩室がある。
休憩室といっても簡単なものだ。
ガス給湯器とガスコンロ、シンク、電子レンジ、電子ポットのある小さな台所。
絨毯の敷かれた4畳半の部屋。
洋式のトイレ。
大学が初めて一人暮らしをするのにちょうどいいスペースかもしれない。シャワーはないが。
4畳半の部屋の真ん中には脚の短い机が置かれ、5つの座布団が転がっている。
部屋の隅にはラックが設置されている。
ラックには『リラの工房』のコックコートとバンダナ、エプロンのほかに様々な私服がハンガーで吊るされている。
この部屋は休憩室であると同時に着替え部屋でもあるのだ。
私は4畳半の机の上に置かれた箱に手を出した。
箱の中にはお弁当が入っている。仕出し弁当だ。
仕出し弁当の白米が詰まった容器を電子レンジに入れると温める。
温かい白米ができあがると、私は机の前に正座をしてマスクを外した。
両手を合わせる。
「いただきます」
独りぼっちの昼食の時間の始まりだ。
私がおかずの鮭の切り身を突いている時だった。
階段を上る音が聞こえる。
休憩室の出入口から恐る恐るといった雰囲気で顔を出す人物がいた。
主に売り場で働いている女性だった。
「すみません、お休みのところ」
女性が頭を下げる。
(すわ問題発生か)
と私は意気込んで、箸を置くとマスクを付けた。
ここのところ『リラの工房』で私の出番がほとんどないので少しやる気になってしまった。
もちろん職場で問題発生してはいけないとわかってはいるのだが。
私はなるべく穏やかな声を出す。
「大丈夫だよ。何かあった?」
「中島さんと加納くんが休憩を取りたいそうです」
「?」
「中島さんが、『自分は大丈夫ですが、加納くんが13時上がりなので休憩をもらいたいのですが』とおっしゃっています」
「しまった」
私は声を出した。
中島くんには、
「休憩は中島くんのタイミングで取って」
と確かに伝えた。
が、加納くんの上がりの時間まで考慮していなかった。
ほかの従業員が作業に入る前に、私はみんなのシフト表をチェックしていた。
シフト表には中島くんの今日の勤務時間が8時間で、加納くんの勤務時間が7時間であることは記されていた。
中島くんと加納くんには働く時間に隔たりがあるのを忘れていた。
(私のミスだ)
私は急いで立ち上がった。
「中島くんはどこにいる?」
「要件を伝えるとすぐに焼き場に戻ってしまいました。たぶん、焼き場に加納くんを一人にするのを不安になられたんだと思います」
「……ごめんなさい」
「え?」
「あ、独り言。すぐに私が行くからあなたは売り場に戻って」
「わかりました」
女性は怪訝そうな顔付きで一礼すると、階段を降りて行った。
私は立ち上がったまま仕出し弁当を赤い箱に戻した。
落ちるように階段を降りる。
調理場と売り場を駆け足で行く。
腰に巻いたエプロンの衣擦れの音が耳障りだ。
焼き場に着く。
焼き場のドアノブを乱暴に引いた。
焼き場では加納くんがタルトの土台となる生地の型取りしているところだった。
すぐそばに中島くんがいて、加納くんの手付きをじっと見ている。
私は頭を下げた。
「ごめんなさい。加納くんの今日の上がりが13時だってことをすっかり忘れてた。その作業、私が代わるから二人は今からお昼休憩に入って」
加納くんが手を止め、私を見た。
中島くんも私を見た。
(いくら後輩とはいえ、これは怒るだろうな)
と私は覚悟した。
が、二人は私の意に反して冷静だった。
中島くんが私に一礼する。
「急に呼び出したようなかたちになってすみません」
加納くんも倣うように詫びる。
「申し訳ありません。初日に厚かましいとは思っていたんですが、中島先輩に、『自分、今日は13時でお仕事を上がらせてもらうことになってます』と言ったんです」
中島くんも決まりが悪そうである。
「自分も言われるまでわかりませんでした」
もっと決まりが悪いのは私である。
「シフト表を見てたのに気が付かなかった私が悪いよ。タルトの型取りだよね。何号?」
「3号です」
中島くんが簡潔に答えた。
「あとは私がやるから、2人でお昼休憩に入って。中島くん、休憩室の使い方を加納くんに教えてあげて」
「わかりました」
中島くんは返事をすると、加納くんを促した。
「じゃあ、休憩に入ろうか」
「はい」
「今日って仕出し弁当は注文した?」
「してないです」
「店長が教えるのを忘れたのかな。近くにコンビニがあるけど教えようか」
「大丈夫です」
「本当に近いよ」
「お弁当、持って来てます」
「それならいいね」
「はい。昨日の残り物ですが」
「え、加納くんが作ったの?」
「はい」
「手作りじゃん。すげぇ」
そんなやり取りをしながら中島くんと加納くんは焼き場から出て行った。
私は焼き場にある手洗い場で、液体せっけんを使って左右の手のひらに泡を立てていた。
(もっとしっかりとしなきゃ。他人様に嫌われてもいいが、やるべきことはやらなきゃ駄目だ)
60秒間、手をそそいだのち、私は3号のタルト生地の型抜き作業に入った。