白薔薇の棘が突き刺さる
04 素晴らしい縁談
黒塗りの馬車の中で、目の前に座る少女にシュネージュは視線を向けた。そわそわと落ち着かないようで、緊張している。
「お名前を伺ってもいい?」
瞼を閉じた少女は、やや遅れてこちらに顔を向けると、おずおずと口を開く。
「ミラと申します。奥様」
馬車に乗ってすぐに、シュネージュは少女の事情を察することができた。彼女は目が見えない。
シュネージュは、見えてないと分かっていても首を振った。
「わたくしは、奥様じゃないわ」
「奥様をお迎えするように伺いましたが……」
「お断りするのよ」
因縁の相手に再会した夜会の記憶が頭から消え去った頃、シュネージュは縁談が決まったことを知らされた。相手は五歳年上の隣国の侯爵家当主だという。
「絶対に嫌です。無理ですから」
「あら、破格の申し出なのよ。それに支度金をいただいて、大半を使ってしまったわ」
「なんですって!?」
動揺するシュネージュに、母は満面の笑みを向ける。
「クロードの寄宿学校の費用に、使ったのよ」
クロードとは弟の名だ。だが、寄宿学校の費用だけで使い切れる額じゃない。また、慣れない商売に手を出したのだ。以前の破産寸前になった原因もそれだった。
「貴女も昔は、嫌ってほど縁談があったけど、もう年じゃない。諦めなさい」
年だからなんだというのだ。隣国ならバレないと思ったのか。醜聞は風のように素早く広がるのだ。いい縁談なら妹のモニカにやればいいのに。
口論している内に、迎えの馬車が到着したという。晴れやかに笑う母に背を押され、シュネージュは馬車に乗り込んだ。
どうにか婚姻を取りやめてもらおう。使ってしまったお金の返済をしないといけないが、すぐには無理だ。シュネージュは、結婚相手である隣国の侯爵家に赴くこととなった。
「旦那様は、素敵な方です。優しくて、わたしのような者も雇っていただいてます」
「そう。どんな仕事をされてるの?」
「お部屋の掃除や洗濯。銀食器を磨くお仕事もしてます。息子と一緒に暮らせるので助かってます」
シュネージュは驚いた。痩せた少女は妹のモニカと同じくらいか年下に見えた。それが、子持ちだとは。
「息子さんがいらっしゃるの?」
「はい。息子はちゃんと目が見えるのですよ」
「年はいくつ?」
「四歳です」
ミラは、誇らしげに満面の笑みを向けた。その笑顔の幼さにシュネージュはいたたまれなくなった。嫌な予感というのは当たるのだ。それでも、シュネージュは尋ねてしまった。
「ミラさんは、ずいぶん若く結婚したのね?」
「いいえ、結婚してないです。……父親は誰かわからないのです。わたしの目は見えないから」
予想した通り、ミラは望まぬ妊娠をした未婚の母だった。
通いなれた道を歩いてると、ミラは五人組の面識のない男たちに襲われた。すべてが終了すると嘲笑しながら、ボロボロになって震えるミラに唾を吐きかけ、脱げた靴を遠くへ投げた。ミラの家は貧しく、靴は一足しかない。
仕方なく裸足で過ごしている中で妊娠に気づく。ミラは弱々しく学があるように見えない。相手を訴えることも制裁することも出来ないだろう。いいや、どんな恵まれた立場でさえ、勇敢な女性でさえ、襲った相手に罰を与えるのは難しいことだ。
沢山の事件の記事が、裁判の記録が、それを示唆している。コイシュハルト公爵が何も咎められないように、罪人は今日も平穏に生きている。被害者に大きな痕跡を残したまま。
シュネージュは暗澹たる気持ちになった。唯一の救いは、彼女の口振りから息子への愛情が伝わることだ。シュネージュは、ほろ苦い安堵を味わった。
ある日、騎乗した男に『なぜ、靴を履いてない?』と尋ねられ、身重のミラは正直にすべてを話した。長い溜め息の後、男は馬から降りた。ミラに腕が伸ばされる。また犯されるとミラは思った。だが、体は浮き上がり、馬に乗せられる。
市場に着くと靴を五足も買ってもらった。その後も男はミラを気にかけ、田舎町で乳飲み子を抱え途方にくれる彼女に職を斡旋した。それが、侯爵家当主その人だという。
侯爵の話をするミラは、心躍らせるように頬が上気している。シュネージュだってミラと同じ立場なら、侯爵のことが好きになるだろう。
「旦那様のこと、お好きなのね」
「そんな! 神様みたいに思っています。――奥様は、なぜお断りされるのですか? 旦那様のどこがお気に召さないのですか?」
侯爵は立派な紳士だ。気にいるも気にいらないも何もない。
シュネージュには資格がないのだ。
身体の隅々までレオナールに蹂躙された。最後まで守ろうとした唇さえ、彼は奪っていった。侯爵がどんなに心の広い男でも、誰かのお古は嫌だろう。
馬車が止まった。
扉が開くと、歓声に包まれた。
訳もわからず差し出された手に促され馬車を降りると、大観衆が集まっていた。
「「「ご結婚おめでとうございます!」」」
領民たちにぐるりと取り囲まれて、祝われた。固まるシュネージュに、緊張の面持ちの少女が花束を持って、差し出してきた。
「領民を代表して、奥様にお祝い申し上げます」
一斉に、拍手と喝采を浴びた。
シュネージュはすっかり困ってしまった。結婚しないのだから、祝われては困る。
侯爵は、王都のタウンハウスにいるという。今日は領地で一泊して、明朝、そのタウンハウスに向かう予定だという。
真新しい教会や孤児院、病院に学校。侯爵が建てた施設の見学に引きずりまわされた。
「大変、素晴らしい旦那様です」
「旦那様は、優しい人です」
「本当に思いやりのある方です」
あちこちで、そんな声を聞く。
(五歳年上か……)
シュネージュは兄が欲しかった。姉の立場の苦しさは良くわかるから、姉はいらない。頼りがいのある年上の男性に思い切り甘えてみたかった。
そんなに素晴らしく優しい人なら、シュネージュをこのまま貰ってくれないだろうか。もし事情を話して妻として受け入れてくれたなら、シュネージュは従順な妻として夫を神のように崇めるつもりだ。
だが、きっとそんな都合のいいことは起こらない。
事情を聞けば仰天するだろう。噂が広がれば、身の破滅だ。シュネージュだけならいいが、弟のクロードや妹のモニカにまで迷惑をかけたくない。
夢見てはいけない。
結婚はお断りする。支度金は返さないといけない。一括では無理だから、分割にさせてもらえるように交渉しなければ。分割なら、慣れない商売に手を出さず、堅実に生きていけば返済できるはずだ。
それに、前評判に騙されてはいけない。コイシュハルト公爵でさえ名の通った紳士なのだ。
シュネージュは、改めて決意を固めた。
「お名前を伺ってもいい?」
瞼を閉じた少女は、やや遅れてこちらに顔を向けると、おずおずと口を開く。
「ミラと申します。奥様」
馬車に乗ってすぐに、シュネージュは少女の事情を察することができた。彼女は目が見えない。
シュネージュは、見えてないと分かっていても首を振った。
「わたくしは、奥様じゃないわ」
「奥様をお迎えするように伺いましたが……」
「お断りするのよ」
因縁の相手に再会した夜会の記憶が頭から消え去った頃、シュネージュは縁談が決まったことを知らされた。相手は五歳年上の隣国の侯爵家当主だという。
「絶対に嫌です。無理ですから」
「あら、破格の申し出なのよ。それに支度金をいただいて、大半を使ってしまったわ」
「なんですって!?」
動揺するシュネージュに、母は満面の笑みを向ける。
「クロードの寄宿学校の費用に、使ったのよ」
クロードとは弟の名だ。だが、寄宿学校の費用だけで使い切れる額じゃない。また、慣れない商売に手を出したのだ。以前の破産寸前になった原因もそれだった。
「貴女も昔は、嫌ってほど縁談があったけど、もう年じゃない。諦めなさい」
年だからなんだというのだ。隣国ならバレないと思ったのか。醜聞は風のように素早く広がるのだ。いい縁談なら妹のモニカにやればいいのに。
口論している内に、迎えの馬車が到着したという。晴れやかに笑う母に背を押され、シュネージュは馬車に乗り込んだ。
どうにか婚姻を取りやめてもらおう。使ってしまったお金の返済をしないといけないが、すぐには無理だ。シュネージュは、結婚相手である隣国の侯爵家に赴くこととなった。
「旦那様は、素敵な方です。優しくて、わたしのような者も雇っていただいてます」
「そう。どんな仕事をされてるの?」
「お部屋の掃除や洗濯。銀食器を磨くお仕事もしてます。息子と一緒に暮らせるので助かってます」
シュネージュは驚いた。痩せた少女は妹のモニカと同じくらいか年下に見えた。それが、子持ちだとは。
「息子さんがいらっしゃるの?」
「はい。息子はちゃんと目が見えるのですよ」
「年はいくつ?」
「四歳です」
ミラは、誇らしげに満面の笑みを向けた。その笑顔の幼さにシュネージュはいたたまれなくなった。嫌な予感というのは当たるのだ。それでも、シュネージュは尋ねてしまった。
「ミラさんは、ずいぶん若く結婚したのね?」
「いいえ、結婚してないです。……父親は誰かわからないのです。わたしの目は見えないから」
予想した通り、ミラは望まぬ妊娠をした未婚の母だった。
通いなれた道を歩いてると、ミラは五人組の面識のない男たちに襲われた。すべてが終了すると嘲笑しながら、ボロボロになって震えるミラに唾を吐きかけ、脱げた靴を遠くへ投げた。ミラの家は貧しく、靴は一足しかない。
仕方なく裸足で過ごしている中で妊娠に気づく。ミラは弱々しく学があるように見えない。相手を訴えることも制裁することも出来ないだろう。いいや、どんな恵まれた立場でさえ、勇敢な女性でさえ、襲った相手に罰を与えるのは難しいことだ。
沢山の事件の記事が、裁判の記録が、それを示唆している。コイシュハルト公爵が何も咎められないように、罪人は今日も平穏に生きている。被害者に大きな痕跡を残したまま。
シュネージュは暗澹たる気持ちになった。唯一の救いは、彼女の口振りから息子への愛情が伝わることだ。シュネージュは、ほろ苦い安堵を味わった。
ある日、騎乗した男に『なぜ、靴を履いてない?』と尋ねられ、身重のミラは正直にすべてを話した。長い溜め息の後、男は馬から降りた。ミラに腕が伸ばされる。また犯されるとミラは思った。だが、体は浮き上がり、馬に乗せられる。
市場に着くと靴を五足も買ってもらった。その後も男はミラを気にかけ、田舎町で乳飲み子を抱え途方にくれる彼女に職を斡旋した。それが、侯爵家当主その人だという。
侯爵の話をするミラは、心躍らせるように頬が上気している。シュネージュだってミラと同じ立場なら、侯爵のことが好きになるだろう。
「旦那様のこと、お好きなのね」
「そんな! 神様みたいに思っています。――奥様は、なぜお断りされるのですか? 旦那様のどこがお気に召さないのですか?」
侯爵は立派な紳士だ。気にいるも気にいらないも何もない。
シュネージュには資格がないのだ。
身体の隅々までレオナールに蹂躙された。最後まで守ろうとした唇さえ、彼は奪っていった。侯爵がどんなに心の広い男でも、誰かのお古は嫌だろう。
馬車が止まった。
扉が開くと、歓声に包まれた。
訳もわからず差し出された手に促され馬車を降りると、大観衆が集まっていた。
「「「ご結婚おめでとうございます!」」」
領民たちにぐるりと取り囲まれて、祝われた。固まるシュネージュに、緊張の面持ちの少女が花束を持って、差し出してきた。
「領民を代表して、奥様にお祝い申し上げます」
一斉に、拍手と喝采を浴びた。
シュネージュはすっかり困ってしまった。結婚しないのだから、祝われては困る。
侯爵は、王都のタウンハウスにいるという。今日は領地で一泊して、明朝、そのタウンハウスに向かう予定だという。
真新しい教会や孤児院、病院に学校。侯爵が建てた施設の見学に引きずりまわされた。
「大変、素晴らしい旦那様です」
「旦那様は、優しい人です」
「本当に思いやりのある方です」
あちこちで、そんな声を聞く。
(五歳年上か……)
シュネージュは兄が欲しかった。姉の立場の苦しさは良くわかるから、姉はいらない。頼りがいのある年上の男性に思い切り甘えてみたかった。
そんなに素晴らしく優しい人なら、シュネージュをこのまま貰ってくれないだろうか。もし事情を話して妻として受け入れてくれたなら、シュネージュは従順な妻として夫を神のように崇めるつもりだ。
だが、きっとそんな都合のいいことは起こらない。
事情を聞けば仰天するだろう。噂が広がれば、身の破滅だ。シュネージュだけならいいが、弟のクロードや妹のモニカにまで迷惑をかけたくない。
夢見てはいけない。
結婚はお断りする。支度金は返さないといけない。一括では無理だから、分割にさせてもらえるように交渉しなければ。分割なら、慣れない商売に手を出さず、堅実に生きていけば返済できるはずだ。
それに、前評判に騙されてはいけない。コイシュハルト公爵でさえ名の通った紳士なのだ。
シュネージュは、改めて決意を固めた。