ネイビーブルーの恋~1/fゆらぎ~
第3話 運命のイタズラ
眠っては数時間で起き、を何度も繰り返し、ようやく迎えた朝。ホテルのレストランで朝食のとき近くに同じツアーと思われる人がいたけれど、まだ誰もほとんど会話はせず、簡単に朝の挨拶をするくらいだった。ヨーロッパのビュッフェは日本とは違い、パンもハムもチーズも種類が多い。莉帆と佳織は何でも食べられたけれど、特に固いパンが美味しくてどのホテルでも探して食べたけれど──ドイツの酸っぱいパンだけはいくらか抵抗があった。
荷物を持ってロビーに集合し、バスに乗って観光に出掛けた。ドナウ川に掛かるくさり橋の周辺をまわり、昼食をとってから数時間かかってオーストリアに入った。ウィーンは佳織はもちろん莉帆がいちばん楽しみにしていた場所だ。
「さすが、あちこちから音楽聴こえる!」
バスを降りたあとは夕食の予定だったけれど、店の予約まで時間ができたので少しだけフリータイムになった。シュテファン大聖堂からオペラ座までのケルントナー通りは中央にオープンカフェが並び、多くの人が飲み物を片手にのんびり過ごしていた。莉帆と佳織はカフェには入らず、町にあふれる音楽を楽しみながら少し散策した。
夕食にはウィーンの名物、ウィンナー・シュニッツェルを食べるとは聞いていたけれど。
「五百年以上前からある老舗で、有名人とかの写真やサインがたくさんあるお店なんですが、それが飾ってある部屋の予約が取れたみたいです」
席の確保は出来ていたけれど、どの部屋になったかは添乗員もギリギリまでわからなかったらしい。
石造りの重厚な入口をくぐって通された部屋には、有名人のサインや写真が壁一面に飾られていた。全員が席についてから、店の従業員が長い棒を器用に使いながら『ここにあの人のサインが』と説明してくれた。モーツァルトやベートーヴェンに始まって、現役で活躍している俳優のものもあった。莉帆が座った後ろの壁には、江戸時代の将軍の格好をした俳優の写真もあった。
運ばれてきたメイン料理は、想像のサイズをはるかに越えていた。
「これ、顔くらいない? お皿からはみ出してるし」
衣は軽くて食べやすかったけれど、半分食べたあたりでほとんどの人の手が止まった。昼食から時間は経っているけれどバス移動しただけでお腹はすいていなかったので、完食は無理だった。
「わぁっ、すごい!」
女性の声のほうを見ると、男性二人で参加していたうちの一組が二人とも完食しようとしていた。三十歳くらいだろうか、まだまだ余裕そうだ。
「二人とも細いのに、すごいねぇ」
莉帆と佳織からも見える位置にいたので、その様子を感心して見ていた。苦しそうな顔は見せず、二人ともカツはもちろん一緒に出てきたサラダも完食していた。
「すごい……」
ほとんど全員が、もう何も食べたくない、という顔をしていたけれど。
「わぁ、美味しそう! 良い香り!」
最後に出てきたアップルシュトゥルーデル。出来立てを持ってきてくれたので、リンゴとバターの香りが部屋いっぱいに広がった。椅子の背に凭れていた人たちも、一斉にフォークに手を伸ばした。
翌日は午前中に観光してから、午後はフリータイムになった。郊外へバスで出ていたけれど、ウィーンのオペラ座近くで解散になった。
「まずは……ザッハトルテ食べに行こう!」
一旦解散になって、佳織が言ったときだった。
「あの──」
オペラ座近くでは、中世の格好をした人たちがオペラ鑑賞に誘ってくるので興味があればぜひ、とは聞いていたけれど、佳織と莉帆は夜に別のコンサートに行く予定があったので声をかけられても断るつもりにしていた。だからそう言おうと振り返ると、そこにいるのは中世の格好をした人、ではなかった。近くにはそういう人もいたけれど、声の主は日本人だった。
「はい……?」
「ちょっとだけ、一緒に行動しませんか? あ──俺ら、同じツアーの」
「知ってます。昨日、あれ完食してたの、すごかったですね!」
声をかけてきたのは、例の男性の二人組だった。佳織が笑顔で言うと、二人は少し照れ臭そうにしていた。
「私らこれから、ザッハトルテ食べに行こうと思ってるんですけど」
「もしかして、カフェザッハーの? 実は俺らもその予定で……一緒に行く?」
「はい! あ、私、佳織っていいます。こっちは友達の莉帆」
佳織は相変わらず笑顔で言いながら、莉帆の腕をつかんだ。莉帆はとりあえず挨拶はしたけれど、突然のことにぎこちない笑顔しか作れなかった。
男性二人は、同じ職場の同期で遅めの夏休みだと言った。詳しくはないけれど音楽が好きで、ツアーに参加を決めたらしい。
兵庫県出身で大阪在住の岩倉悠斗、爽やかで優しそう。
生まれながらの大阪府民の高梨勝平、元気で頼りになりそう。
二人とも三十一歳、高身長イケメンで独身、彼女無し。莉帆の新しい恋人候補にぴったりの条件だったけれど、残念ながらまだ莉帆はそんな気にはなれなかった。ちなみに声をかけてきたのは、勝平のほうだ。
店の前には行列が出来ていたけれど、割りとすぐに入ることができた。入り口で従業員が『何人ですか?』と聞いていたのには、莉帆には何語か分からなかったけれど、悠斗がスマートに対応してくれていた。
店に入って席に着き、メニューを手に取った──けれど、文字が読めなかった。英語ではなく、ドイツ語だったからだ。
「ドイツ語かぁ……あ、小さく英語も書いてる!」
注文してから店内を見渡すと、客のほとんどがザッハトルテを目当てに来ていた。カフェザッハーは五ツ星ホテルに併設されたカフェで、赤を基調としたインテリアで高級感がある。ザッハトルテ発祥と言われているのでいつも行列が出来ているけれど、決して安くはない。ケーキと飲み物のセットで約二千円は、決して、安くはない。
「美味しい……! なにこれ、この組み合わせ絶妙!」
甘くて濃厚だったけれど、挟まれているアプリコットジャムと添えられた無糖の生クリームで美味しく食べられた。
「確かに……ザッハトルテだけで食べたら重いけど、生クリームが良い仕事してるなぁ。悠斗も──甘いの苦手やのに、早いな」
莉帆の前に座った勝平が隣の悠斗の手元を見た。昨晩のアップルシュトゥルーデルも、リンゴの酸味があったので食べやすかったらしい。
「お二人はよく旅行するんですか?」
珈琲を飲んでから佳織が聞いた。莉帆と同級生で佳織だけ既婚、今回は莉帆の傷心旅行だというのは簡単に伝えてある。
「よく、というか……これで二回目やな。去年、オランダとベルギーに行って」
「えっ?」
佳織と莉帆は驚いて顔を見合わせた。
「台風で大変やったときですよね? 実は私らも行ったんです。名古屋から」
「ええっ? マジで? 俺ら、職場に無理言って休みずらしてもらって、半月くらい延期で行ったわ」
台風の影響で関空が使えなくなったとき、旅行会社から、予定通りの日程で名古屋から行くか、日程をずらして関空発着にするか、キャンセルするか、の選択肢を出された。莉帆と佳織は名古屋発を選び、悠斗と勝平は関空発着を選んだ。もしも台風が来ていなかったら、一年前に出会っていたらしい。
荷物を持ってロビーに集合し、バスに乗って観光に出掛けた。ドナウ川に掛かるくさり橋の周辺をまわり、昼食をとってから数時間かかってオーストリアに入った。ウィーンは佳織はもちろん莉帆がいちばん楽しみにしていた場所だ。
「さすが、あちこちから音楽聴こえる!」
バスを降りたあとは夕食の予定だったけれど、店の予約まで時間ができたので少しだけフリータイムになった。シュテファン大聖堂からオペラ座までのケルントナー通りは中央にオープンカフェが並び、多くの人が飲み物を片手にのんびり過ごしていた。莉帆と佳織はカフェには入らず、町にあふれる音楽を楽しみながら少し散策した。
夕食にはウィーンの名物、ウィンナー・シュニッツェルを食べるとは聞いていたけれど。
「五百年以上前からある老舗で、有名人とかの写真やサインがたくさんあるお店なんですが、それが飾ってある部屋の予約が取れたみたいです」
席の確保は出来ていたけれど、どの部屋になったかは添乗員もギリギリまでわからなかったらしい。
石造りの重厚な入口をくぐって通された部屋には、有名人のサインや写真が壁一面に飾られていた。全員が席についてから、店の従業員が長い棒を器用に使いながら『ここにあの人のサインが』と説明してくれた。モーツァルトやベートーヴェンに始まって、現役で活躍している俳優のものもあった。莉帆が座った後ろの壁には、江戸時代の将軍の格好をした俳優の写真もあった。
運ばれてきたメイン料理は、想像のサイズをはるかに越えていた。
「これ、顔くらいない? お皿からはみ出してるし」
衣は軽くて食べやすかったけれど、半分食べたあたりでほとんどの人の手が止まった。昼食から時間は経っているけれどバス移動しただけでお腹はすいていなかったので、完食は無理だった。
「わぁっ、すごい!」
女性の声のほうを見ると、男性二人で参加していたうちの一組が二人とも完食しようとしていた。三十歳くらいだろうか、まだまだ余裕そうだ。
「二人とも細いのに、すごいねぇ」
莉帆と佳織からも見える位置にいたので、その様子を感心して見ていた。苦しそうな顔は見せず、二人ともカツはもちろん一緒に出てきたサラダも完食していた。
「すごい……」
ほとんど全員が、もう何も食べたくない、という顔をしていたけれど。
「わぁ、美味しそう! 良い香り!」
最後に出てきたアップルシュトゥルーデル。出来立てを持ってきてくれたので、リンゴとバターの香りが部屋いっぱいに広がった。椅子の背に凭れていた人たちも、一斉にフォークに手を伸ばした。
翌日は午前中に観光してから、午後はフリータイムになった。郊外へバスで出ていたけれど、ウィーンのオペラ座近くで解散になった。
「まずは……ザッハトルテ食べに行こう!」
一旦解散になって、佳織が言ったときだった。
「あの──」
オペラ座近くでは、中世の格好をした人たちがオペラ鑑賞に誘ってくるので興味があればぜひ、とは聞いていたけれど、佳織と莉帆は夜に別のコンサートに行く予定があったので声をかけられても断るつもりにしていた。だからそう言おうと振り返ると、そこにいるのは中世の格好をした人、ではなかった。近くにはそういう人もいたけれど、声の主は日本人だった。
「はい……?」
「ちょっとだけ、一緒に行動しませんか? あ──俺ら、同じツアーの」
「知ってます。昨日、あれ完食してたの、すごかったですね!」
声をかけてきたのは、例の男性の二人組だった。佳織が笑顔で言うと、二人は少し照れ臭そうにしていた。
「私らこれから、ザッハトルテ食べに行こうと思ってるんですけど」
「もしかして、カフェザッハーの? 実は俺らもその予定で……一緒に行く?」
「はい! あ、私、佳織っていいます。こっちは友達の莉帆」
佳織は相変わらず笑顔で言いながら、莉帆の腕をつかんだ。莉帆はとりあえず挨拶はしたけれど、突然のことにぎこちない笑顔しか作れなかった。
男性二人は、同じ職場の同期で遅めの夏休みだと言った。詳しくはないけれど音楽が好きで、ツアーに参加を決めたらしい。
兵庫県出身で大阪在住の岩倉悠斗、爽やかで優しそう。
生まれながらの大阪府民の高梨勝平、元気で頼りになりそう。
二人とも三十一歳、高身長イケメンで独身、彼女無し。莉帆の新しい恋人候補にぴったりの条件だったけれど、残念ながらまだ莉帆はそんな気にはなれなかった。ちなみに声をかけてきたのは、勝平のほうだ。
店の前には行列が出来ていたけれど、割りとすぐに入ることができた。入り口で従業員が『何人ですか?』と聞いていたのには、莉帆には何語か分からなかったけれど、悠斗がスマートに対応してくれていた。
店に入って席に着き、メニューを手に取った──けれど、文字が読めなかった。英語ではなく、ドイツ語だったからだ。
「ドイツ語かぁ……あ、小さく英語も書いてる!」
注文してから店内を見渡すと、客のほとんどがザッハトルテを目当てに来ていた。カフェザッハーは五ツ星ホテルに併設されたカフェで、赤を基調としたインテリアで高級感がある。ザッハトルテ発祥と言われているのでいつも行列が出来ているけれど、決して安くはない。ケーキと飲み物のセットで約二千円は、決して、安くはない。
「美味しい……! なにこれ、この組み合わせ絶妙!」
甘くて濃厚だったけれど、挟まれているアプリコットジャムと添えられた無糖の生クリームで美味しく食べられた。
「確かに……ザッハトルテだけで食べたら重いけど、生クリームが良い仕事してるなぁ。悠斗も──甘いの苦手やのに、早いな」
莉帆の前に座った勝平が隣の悠斗の手元を見た。昨晩のアップルシュトゥルーデルも、リンゴの酸味があったので食べやすかったらしい。
「お二人はよく旅行するんですか?」
珈琲を飲んでから佳織が聞いた。莉帆と同級生で佳織だけ既婚、今回は莉帆の傷心旅行だというのは簡単に伝えてある。
「よく、というか……これで二回目やな。去年、オランダとベルギーに行って」
「えっ?」
佳織と莉帆は驚いて顔を見合わせた。
「台風で大変やったときですよね? 実は私らも行ったんです。名古屋から」
「ええっ? マジで? 俺ら、職場に無理言って休みずらしてもらって、半月くらい延期で行ったわ」
台風の影響で関空が使えなくなったとき、旅行会社から、予定通りの日程で名古屋から行くか、日程をずらして関空発着にするか、キャンセルするか、の選択肢を出された。莉帆と佳織は名古屋発を選び、悠斗と勝平は関空発着を選んだ。もしも台風が来ていなかったら、一年前に出会っていたらしい。