ネイビーブルーの恋~1/fゆらぎ~
第5話 はじまりの予感
観光最終日の午前中はプラハ城とその近くを観光し、ツアー全員での昼食のあと午後はフリータイムになった。莉帆と佳織は添乗員に薦められた美術館に向かい、そのあとすぐトラムに乗ってホテルに戻った。ホテルに近い出口は添乗員が教えてくれていたけれど、二人は違うところから出てしまって少し迷子になった。
「ここどこ? ホテルないやん……」
「どうしよう、誰か……あっ、excuse me」
前から歩いてくる女性がいたので佳織が声をかけたけれど、彼女は〝私、この辺の人間じゃないからわからないわ〟と英語で言った。莉帆は全ては聞き取れなかったけれど、彼女の表情とあわせて何となくわかった。
しばらく歩いていると買い物している人達を見つけ、今度はスマホを出して地図で調べてもらえた。予定より三十分ほど遅れてホテルに到着し、少し休憩してから近くのショッピングセンターへ買い物に出掛けた。
そして翌朝、旅からの帰りはプラハの空港を出たあと、来たときと同じように一旦フィンランドで降りた。楽しみにしていたmarimekkoとムーミンの店で買い物の前に、出国審査があった。列に並んでいる人たちはみんな、パスポートにスタンプを押してもらってすぐに通っていく──けれど莉帆の番になったときはそうではなかった。
「オ元気デスカ? 楽シカッタ? ヨーロッパニハドレクライ居タノ?」
と、怖い顔をした出国審査官に片言の日本語で聞かれた。初めは簡単に日本語で返していたけれど、少々イラッとしてきたので最後は〝one week〟と言うと、審査官は眉を僅かに吊り上げてようやくパスポートを返してもらえた。既に審査を終えて待っていた佳織や他の女性たちのところに行くと、何を話していたのかと心配そうに聞かれた。
という話を聞いて笑っているのは、飛行機で莉帆の隣に座る勝平だ。
買い物を楽しみ、関空行きの出発ロビーで集合したときに飛行機の座席が隣だと判明した。二人、四人、二人、と横並びの中央で、勝平は声を殺しながら笑った。
「良かったなぁ、日本語で聞いてくれて」
「良くないです……なんか、からかわれてるみたいな気したし……まぁ、英語で聞かれてたら、聞き取れんかったやろうけど……」
実際に一年前、オランダに入国の時に審査官が簡単な英語でいくつか質問をしてきたけれど、特に捕まることはなく無事に入国できたけれど、オランダ訛りの〝sightseeing?〟が中国語の〝再見〟に聞こえた。英語を習い始めた中学一年のとき英語の授業で先生に聞いた海外の空港でのやり取りを思い出して会話はできたけれど──What's the purpose of your visit?(訪問の目的は何ですか?)……sightseeing ten-days(サイトウ寝具店でーす)──、日本人の多くは外国語が苦手だ。
それにしてもどうして莉帆が捕まったのか考えたけれど、理由がわからなかった。去年、オランダから帰る時も、持っていたガマ口財布の金具が荷物検査で引っ掛かって時間がかかったけれど。もしかすると、あの審査官のところへ行った人達が莉帆以外は年配者だったので話し相手に選ばれてしまったのか、とも思ったけれど、それは誰にも言わないでおいた。
日本までは十時間以上あるので、食事のとき以外はイヤホンをつけて映画を見たり音楽を聴いてみたり、たまに四人で旅の思い出話や世間話をしたりしていた。
「えっ、近くにいたんですか?」
「通路挟んで斜め後ろやったかなぁ? 英語で困ってるなぁ、って思いながら見てて……」
勝平と悠斗は行きの便から莉帆と佳織の姿を見つけ、ハンガリーに着いてから同じツアーだと確信して話しかけるタイミングを窺っていたらしい。
「そうなんやぁ……」
「次はどこ行くか決めてるん?」
「決めてないです。オーロラ見たいけど寒いし、フィンランドのツアー見てたら英語の添乗員と現地集合っていうのしかないし……。佳織は?」
「私も北欧行きたいけど……デンマークかなぁ。イギリスも行きたいなぁ。まぁ、どこにしても、莉帆はもうちょっと英語の勉強せなあかんなぁ?」
そんな話をしているうちに、乗務員が飲み物を持って回ってきてくれた。今回は日本人乗務員のほうが多かったので莉帆は何も苦労しなかった──けれど、その代わり、近くにいた年配女性のグループがまだ英語から離れられていなかったようで、飲み物は「オレンジアップル」と言って間違いに気づいて大笑いしていた。
関空に到着したのは、日本時間の朝八時頃だった。時計を七時間進めたけれど、体内時計はまだ夜中のはずだ。距離にもよるけれど、時間は戻るよりも進むほうが時差ボケが辛いらしい。妙な感覚にふらつきながらターンテーブルから荷物を回収し、最初に預かったイヤホンを添乗員に返却してそのまま解散になった。
「いろいろと、ありがとうございました」
勝平と悠斗はまだ近くにいたので、莉帆はお礼を言いに行った。一緒に過ごしたのは短い時間だったけれど、元彼を思い出して辛いときもあったけれど、出会ったおかげで前を向けたことには間違いない。
「こちらこそ。……連絡先、聞いても良い?」
「え?」
「あ──嫌なら、良いけど」
勝平と悠斗のことは、嫌いではないけれど。悪い人ではないだろうと佳織が保証してくれていたけれど。単に同じツアーに参加していた仲間というだけで今は特に何も思っていない。連絡先を交換したとして、特に用事があるとは思えない。
もしかすると──どちらかと付き合うことになるかもしれないけれど、莉帆はまだそんな気分ではない。
「嫌ではないですけど……」
「聞いといたら? 相談乗ってくれる、って言ってたし」
佳織のその言葉で莉帆はハッとした。数日前のプラハの夜、勝平と悠斗はそれを約束してくれた。実際にどうなるかはわからないけれど、あれから彼らは本当に莉帆のことを気にかけてくれていた。
「じゃあ……よろしくお願いします」
そのとき、莉帆はあまり気にしていなかったけれど。
男性陣、特に勝平が嬉しそうな顔をしたのを佳織は見逃さなかった。もしかすると彼は、単純に莉帆のことが気になっているのかもしれない。元彼が姿を現すことは考えたくないけれど、もしそうなったとしても彼なら力ずくで助けてくれるはずだ。
「近いうちに、また会えたら良いですね」
佳織が笑顔で言うと、勝平も悠斗もすぐに、是非、と笑った。
男性陣とは乗る電車が違ったので、佳織と莉帆は二人で荷物を引きずりながらホームに向かった。同じ時間に到着した人たちは既にどこかへ行ったようで駅に姿はない。
「莉帆、どう? リフレッシュできた?」
「うん。あー、だんだん現実に戻されていく……。今日と明日はゆっくりして、また仕事かぁ」
「いつが良いかなぁ」
「……何が?」
「あの二人と会うの。何の仕事してんやろな? 週末休みかな?」
「どうやろ? 英語にはあんまり困ってなさそうやったし……外資系かな? 学校の先生とか?」
「莉帆……興味でてきた?」
「えっ、違う……」
莉帆は慌てて否定したけれど──。
旅先でのことを思い出して、無意識に顔が緩んでしまった。
「ここどこ? ホテルないやん……」
「どうしよう、誰か……あっ、excuse me」
前から歩いてくる女性がいたので佳織が声をかけたけれど、彼女は〝私、この辺の人間じゃないからわからないわ〟と英語で言った。莉帆は全ては聞き取れなかったけれど、彼女の表情とあわせて何となくわかった。
しばらく歩いていると買い物している人達を見つけ、今度はスマホを出して地図で調べてもらえた。予定より三十分ほど遅れてホテルに到着し、少し休憩してから近くのショッピングセンターへ買い物に出掛けた。
そして翌朝、旅からの帰りはプラハの空港を出たあと、来たときと同じように一旦フィンランドで降りた。楽しみにしていたmarimekkoとムーミンの店で買い物の前に、出国審査があった。列に並んでいる人たちはみんな、パスポートにスタンプを押してもらってすぐに通っていく──けれど莉帆の番になったときはそうではなかった。
「オ元気デスカ? 楽シカッタ? ヨーロッパニハドレクライ居タノ?」
と、怖い顔をした出国審査官に片言の日本語で聞かれた。初めは簡単に日本語で返していたけれど、少々イラッとしてきたので最後は〝one week〟と言うと、審査官は眉を僅かに吊り上げてようやくパスポートを返してもらえた。既に審査を終えて待っていた佳織や他の女性たちのところに行くと、何を話していたのかと心配そうに聞かれた。
という話を聞いて笑っているのは、飛行機で莉帆の隣に座る勝平だ。
買い物を楽しみ、関空行きの出発ロビーで集合したときに飛行機の座席が隣だと判明した。二人、四人、二人、と横並びの中央で、勝平は声を殺しながら笑った。
「良かったなぁ、日本語で聞いてくれて」
「良くないです……なんか、からかわれてるみたいな気したし……まぁ、英語で聞かれてたら、聞き取れんかったやろうけど……」
実際に一年前、オランダに入国の時に審査官が簡単な英語でいくつか質問をしてきたけれど、特に捕まることはなく無事に入国できたけれど、オランダ訛りの〝sightseeing?〟が中国語の〝再見〟に聞こえた。英語を習い始めた中学一年のとき英語の授業で先生に聞いた海外の空港でのやり取りを思い出して会話はできたけれど──What's the purpose of your visit?(訪問の目的は何ですか?)……sightseeing ten-days(サイトウ寝具店でーす)──、日本人の多くは外国語が苦手だ。
それにしてもどうして莉帆が捕まったのか考えたけれど、理由がわからなかった。去年、オランダから帰る時も、持っていたガマ口財布の金具が荷物検査で引っ掛かって時間がかかったけれど。もしかすると、あの審査官のところへ行った人達が莉帆以外は年配者だったので話し相手に選ばれてしまったのか、とも思ったけれど、それは誰にも言わないでおいた。
日本までは十時間以上あるので、食事のとき以外はイヤホンをつけて映画を見たり音楽を聴いてみたり、たまに四人で旅の思い出話や世間話をしたりしていた。
「えっ、近くにいたんですか?」
「通路挟んで斜め後ろやったかなぁ? 英語で困ってるなぁ、って思いながら見てて……」
勝平と悠斗は行きの便から莉帆と佳織の姿を見つけ、ハンガリーに着いてから同じツアーだと確信して話しかけるタイミングを窺っていたらしい。
「そうなんやぁ……」
「次はどこ行くか決めてるん?」
「決めてないです。オーロラ見たいけど寒いし、フィンランドのツアー見てたら英語の添乗員と現地集合っていうのしかないし……。佳織は?」
「私も北欧行きたいけど……デンマークかなぁ。イギリスも行きたいなぁ。まぁ、どこにしても、莉帆はもうちょっと英語の勉強せなあかんなぁ?」
そんな話をしているうちに、乗務員が飲み物を持って回ってきてくれた。今回は日本人乗務員のほうが多かったので莉帆は何も苦労しなかった──けれど、その代わり、近くにいた年配女性のグループがまだ英語から離れられていなかったようで、飲み物は「オレンジアップル」と言って間違いに気づいて大笑いしていた。
関空に到着したのは、日本時間の朝八時頃だった。時計を七時間進めたけれど、体内時計はまだ夜中のはずだ。距離にもよるけれど、時間は戻るよりも進むほうが時差ボケが辛いらしい。妙な感覚にふらつきながらターンテーブルから荷物を回収し、最初に預かったイヤホンを添乗員に返却してそのまま解散になった。
「いろいろと、ありがとうございました」
勝平と悠斗はまだ近くにいたので、莉帆はお礼を言いに行った。一緒に過ごしたのは短い時間だったけれど、元彼を思い出して辛いときもあったけれど、出会ったおかげで前を向けたことには間違いない。
「こちらこそ。……連絡先、聞いても良い?」
「え?」
「あ──嫌なら、良いけど」
勝平と悠斗のことは、嫌いではないけれど。悪い人ではないだろうと佳織が保証してくれていたけれど。単に同じツアーに参加していた仲間というだけで今は特に何も思っていない。連絡先を交換したとして、特に用事があるとは思えない。
もしかすると──どちらかと付き合うことになるかもしれないけれど、莉帆はまだそんな気分ではない。
「嫌ではないですけど……」
「聞いといたら? 相談乗ってくれる、って言ってたし」
佳織のその言葉で莉帆はハッとした。数日前のプラハの夜、勝平と悠斗はそれを約束してくれた。実際にどうなるかはわからないけれど、あれから彼らは本当に莉帆のことを気にかけてくれていた。
「じゃあ……よろしくお願いします」
そのとき、莉帆はあまり気にしていなかったけれど。
男性陣、特に勝平が嬉しそうな顔をしたのを佳織は見逃さなかった。もしかすると彼は、単純に莉帆のことが気になっているのかもしれない。元彼が姿を現すことは考えたくないけれど、もしそうなったとしても彼なら力ずくで助けてくれるはずだ。
「近いうちに、また会えたら良いですね」
佳織が笑顔で言うと、勝平も悠斗もすぐに、是非、と笑った。
男性陣とは乗る電車が違ったので、佳織と莉帆は二人で荷物を引きずりながらホームに向かった。同じ時間に到着した人たちは既にどこかへ行ったようで駅に姿はない。
「莉帆、どう? リフレッシュできた?」
「うん。あー、だんだん現実に戻されていく……。今日と明日はゆっくりして、また仕事かぁ」
「いつが良いかなぁ」
「……何が?」
「あの二人と会うの。何の仕事してんやろな? 週末休みかな?」
「どうやろ? 英語にはあんまり困ってなさそうやったし……外資系かな? 学校の先生とか?」
「莉帆……興味でてきた?」
「えっ、違う……」
莉帆は慌てて否定したけれど──。
旅先でのことを思い出して、無意識に顔が緩んでしまった。