つれない男女のウラの顔




「花梨」


電車を降り、改札を抜けてすぐに声を掛けられた。振り向かなくても相手が誰なのかは分かる。低く落ち着いたこの声は、私と同じ秘密を持っている、あの人だ。


「成瀬さん お疲れ様です。定時上がりで大丈夫でした?お仕事忙しいんじゃ…」

「今取り組んでいるやつはどれも納期がまだ先だから大丈夫だ」


とか言って、今日も持ち帰っているんでしょ?
すぐそこのスタバでコーヒーを買って渡す予定だったのに、その隙も与えてくれなかったし。

私のせいで疲れが溜まってないだろか。さすがに心配になっちゃうよ。


「向こうに車を停めているから、一緒に帰ろう」


私達は同じアパートに住んでいる。だから“送る”
ではなく“一緒に帰る”という言葉を選んだのかもしれないけど、そのワード、強すぎませんか。


「おジャマしていいのデスカ…?」


緊張でカタコトになってしまった私とは反対に、成瀬さんは「夕方といっても外はまだ暑いからな」と淡々と紡ぐ。

いつだって冷静。表情ひとつ変えない。感情が死んでいると言われる理由は、きっとここにあるのではないだろうか。


「それに花梨の鍵は車に置いている。そこで返すから、とりあえず行こう」

「ありがとうございます…」


成瀬さんが歩き始め、その背中を見つめながら後を追う。隣に並ぶのは緊張するから、常に一歩後ろの距離を保つ。


仕事が終わるまでの間、成瀬さんと待ち合わせしたことに対して緊張していたから、もはや鍵のことなんて忘れていた。成瀬さんだから安心出来た。

あの付箋を渡してくれたのは、仕事が始まってすぐのことだった。てことは、朝一で石田さんのところへ行ってくれてのだろうか。

いつからその予定で動いていたの?今朝、成瀬さんの部屋で別れた時は何も言っていなかったのに。

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