天妃物語〜本編後番外編・帰ってきた天妃が天帝に愛されすぎだと後宮の下女の噂話がはかどりすぎる〜
「ああ、天妃様……」
そう、この人智を越えた力こそ天妃の神気だった。
瞬間、萌黄はすべてを悟った。
地上に落ちた天妃が目覚めたことを。そしてその天妃が誰だったかということも。
萌黄はゆっくりと地面に正座をし、両手をついて平伏した。
言葉もなく静かに平伏す。
そこにいるのは天上の天妃。天帝は天妃を見つけたのだ。
もうすぐ天上の玉座に天帝と天妃が戻るだろう。それは地上の平穏が約束されるということで、萌黄は地上の人間として歓喜した。
でも、……萌黄の頬にひとすじの涙が流れた。
この涙は、もう二度と鶯を姉とは呼べなくなるから。
だって鶯は萌黄の姉さまではなくなり、天上の天妃となったのだから。
地上の人間である萌黄と、天上の天妃である鶯。道は別たれたのだ。
「姉さま……っ、ぅっ」
最後にそっと呟いた。
最後の涙は、たった一人の姉が姉ではなくなった悲しみの涙だった。
その後、鶯は天帝や子どもたちとともに天上に帰り、それっきり会っていないのだ。――――
「鶯……」
あの時のことを思い出して萌黄は小さく呟いた。
もう鶯に向かって『鶯』『姉さま』とは畏れ多くて呼べないけれど、一人きりの時は許してほしい。
萌黄がため息をついた。
そしてまた文をしたためようと筆を握ろうとしたが。――――シュルリッ。御簾の向こう側から唐衣の長い裾を捌く音がした。
萌黄はその衣擦れの音にハッとして顔を上げる。
御簾の向こう側に突然現れた人の気配。
まさか、まさか、まさか。心臓が高鳴って胸が苦しくなる。
そして御簾の向こうから聞こえてきたのは忘れられない声。
「ああ青藍、勝手に行ってはいけませんっ」
「あぶーっ」
ぺらっ。
御簾が少しだけめくられた。
そこから覗いたのはハイハイした赤ちゃんの顔。青藍だ。
青藍は萌黄を見るとニコッと笑ったが。
「あ、あぶ〜〜〜!」
ズルズルズルーーー。
引きずられてまた渡殿の向こうに消えてしまった。まるで吸い込まれていったように。
そしてまた聞こえてきたのは騒がしい声。
「青藍、だめじゃないですか。女人がいる部屋の御簾を許しもなく開けてはいけません。それに御簾の向こうにいるのは斎宮の斎王ですよ? この日本の神職で最高位の存在です」
「あう〜」
「これは作法ですよ。覚えておきなさい」
「鶯、青藍はまだ赤ん坊だぞ?」
聞こえてきた殿方の声。この聞き覚えのある声は黒緋。
「いいえ、赤ちゃんでも青藍は立派な男子です。今から覚えておくべきことです。青藍、分かりましたか?」
「あう?」
「お返事は?」
「あいっ」
「よろしい」
鶯の満足そうな声。
しかし。
「……絶対分かってないな」
「せいらんはおへんじだけじょうずなんだ」
黒緋と紫紺の少し呆れた声がした。
こうして御簾の向こうから聞こえてきた声に萌黄の目頭が熱くなる。
萌黄は座っていた上座の置き畳から下りて、板間に正座して御簾に向かって平伏した。
少しして御簾の向こうから萌黄に声がかけられる。
そう、この人智を越えた力こそ天妃の神気だった。
瞬間、萌黄はすべてを悟った。
地上に落ちた天妃が目覚めたことを。そしてその天妃が誰だったかということも。
萌黄はゆっくりと地面に正座をし、両手をついて平伏した。
言葉もなく静かに平伏す。
そこにいるのは天上の天妃。天帝は天妃を見つけたのだ。
もうすぐ天上の玉座に天帝と天妃が戻るだろう。それは地上の平穏が約束されるということで、萌黄は地上の人間として歓喜した。
でも、……萌黄の頬にひとすじの涙が流れた。
この涙は、もう二度と鶯を姉とは呼べなくなるから。
だって鶯は萌黄の姉さまではなくなり、天上の天妃となったのだから。
地上の人間である萌黄と、天上の天妃である鶯。道は別たれたのだ。
「姉さま……っ、ぅっ」
最後にそっと呟いた。
最後の涙は、たった一人の姉が姉ではなくなった悲しみの涙だった。
その後、鶯は天帝や子どもたちとともに天上に帰り、それっきり会っていないのだ。――――
「鶯……」
あの時のことを思い出して萌黄は小さく呟いた。
もう鶯に向かって『鶯』『姉さま』とは畏れ多くて呼べないけれど、一人きりの時は許してほしい。
萌黄がため息をついた。
そしてまた文をしたためようと筆を握ろうとしたが。――――シュルリッ。御簾の向こう側から唐衣の長い裾を捌く音がした。
萌黄はその衣擦れの音にハッとして顔を上げる。
御簾の向こう側に突然現れた人の気配。
まさか、まさか、まさか。心臓が高鳴って胸が苦しくなる。
そして御簾の向こうから聞こえてきたのは忘れられない声。
「ああ青藍、勝手に行ってはいけませんっ」
「あぶーっ」
ぺらっ。
御簾が少しだけめくられた。
そこから覗いたのはハイハイした赤ちゃんの顔。青藍だ。
青藍は萌黄を見るとニコッと笑ったが。
「あ、あぶ〜〜〜!」
ズルズルズルーーー。
引きずられてまた渡殿の向こうに消えてしまった。まるで吸い込まれていったように。
そしてまた聞こえてきたのは騒がしい声。
「青藍、だめじゃないですか。女人がいる部屋の御簾を許しもなく開けてはいけません。それに御簾の向こうにいるのは斎宮の斎王ですよ? この日本の神職で最高位の存在です」
「あう〜」
「これは作法ですよ。覚えておきなさい」
「鶯、青藍はまだ赤ん坊だぞ?」
聞こえてきた殿方の声。この聞き覚えのある声は黒緋。
「いいえ、赤ちゃんでも青藍は立派な男子です。今から覚えておくべきことです。青藍、分かりましたか?」
「あう?」
「お返事は?」
「あいっ」
「よろしい」
鶯の満足そうな声。
しかし。
「……絶対分かってないな」
「せいらんはおへんじだけじょうずなんだ」
黒緋と紫紺の少し呆れた声がした。
こうして御簾の向こうから聞こえてきた声に萌黄の目頭が熱くなる。
萌黄は座っていた上座の置き畳から下りて、板間に正座して御簾に向かって平伏した。
少しして御簾の向こうから萌黄に声がかけられる。