天妃物語〜本編後番外編・帰ってきた天妃が天帝に愛されすぎだと後宮の下女の噂話がはかどりすぎる〜
「斎王様、失礼してもいいですか?」

 鶯が『斎王』と呼んで声をかけてきた。
 今や鶯は天妃の(くらい)で、斎王といえど地上の人間には手の届かない存在になった。それなのに斎宮で暮らしていた時と変わらないもの。

「……あれ、返事がないですね。斎王様? …………萌黄(もえぎ)?」

『萌黄』
 聞き慣れた声で呼ばれて平伏(ひれふ)す萌黄の瞳から涙があふれた。幼い頃から何度も呼んでくれた声なのだ。
 ぽたぽたと床に涙が水たまりをつくる。
 すぐに返事をしたいのに口を開けば嗚咽が漏れてしまう。
 返事をできないでいると、御簾(みす)の向こうで鶯が焦りだす。

「萌黄、いるんですよね? そっちへ行きますよ? いいですよね、いるんですよね、そっちに行きますからねっ」

 鶯が御簾をそおっと捲りあげた。
 でも平伏(ひれふ)して泣いている萌黄を見た途端、「萌黄!?」と慌てて駆け込んだ。

「どうしたんですか? なにか辛いことでもあったのですか? それとも誰かにいじめられてるんですか? ああ萌黄、どうして泣いているんです……!」

 そう聞きながら鶯が平伏(ひれふ)している萌黄を起こそうとする。
 しかし萌黄は平伏したまま首を横に振ると、鶯の手をやんわりと離させた。
 そして袖で涙を拭うと、天帝と天妃と二人の御子に向かって改めて平伏す。

「天帝と天妃におかれましては、このような場所にようこそおいでくださいました。本来なら地上のすべての民が平伏してお迎えしなければならないところを」
「萌黄、そのような挨拶などいりません。そんなことより顔を見せてください。あなたは私の妹ではないですか!」

 そう言って鶯が平伏す萌黄の顔を覗きこもうとする。
 だが寸前で萌黄が袖で顔を隠してしまう。人間が天妃の尊顔を直接拝謁(はいえつ)することは不敬《ふけい》だった。

「いいえ、天妃様の妹などと(おそ)れ多いことでございます」
「萌黄、どうしてそんなことを……っ。もう怒りました。えいっ!」
「え? わああっ!」

 鶯が萌黄の手を握ったかと思うと強引に下げさせたのだ。
 萌黄が驚きに目を丸めて、近い距離で二人の目が合う。
 その途端、萌黄は「うっ」と唇を噛みしめた。でも瞳にじわじわと涙が滲んで。

「うぅっ、鶯……!! 鶯、うわああああああああん!!」

 萌黄が飛びつくように鶯にしがみついた。
 ぎゅうっとしがみついて子どものように泣きじゃくる。
 鶯は驚きながら萌黄を抱きしめて背中を撫でる。
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