天妃物語〜本編後番外編・帰ってきた天妃が天帝に愛されすぎだと後宮の下女の噂話がはかどりすぎる〜
「紫紺の手は大きくなりましたね。あ、こんなところに豆が。剣のお稽古もしっかり頑張っているんですね」
「うん、こんどちちうえとてあわせするんだ」
「それは良かったですね。はい終わり。綺麗になりました」
「ははうえ、ありがとう!」
「どういたしまして。さあ次は青藍ですね」

 鶯は青藍に向き直った。
 青藍が黒緋の両手でがっしり捕まって差し出される。準備万端だ。
 しかし青藍は身動きできなくされてプンプンだった。

「あうーっ、あーあー!」
「文句言っても無駄だ。お前、顔まで墨だらけだろ。綺麗にしてもらえ」
「あうあー! あう〜っ」
「また怒りだしたな」
「せいらん、プンプンだ。でももうすぐなく」

 紫紺が楽しそうに言うと、案の定青藍は「うっ、うっ」と泣き崩れた。
 相変わらず思い通りにならないと泣くしかないと思う青藍である。
 そんないつもの光景に黒緋は目を細めたが、水桶で手ぬぐいを絞っている鶯を見た。
 鶯の美しい指が慣れた手付きで手ぬぐいを絞っている。

「慣れているな。本当にしていたのか」
「はい、斎宮にあがったばかりの頃は下女をしていたので毎日お掃除です。渡殿や稽古場の床を雑巾で拭いていました」
「……。……天妃がか」
「あの時は天妃ではありませんでした」
「そうかもしれないが、俺の天妃なことに変わりないだろ」

 黒緋が少し強い口調で言い返した。
 ムキになっているようにも見える黒緋に鶯は目を瞬く。

「……もしかして怒ってますか?」
「自分に腹を立てているんだ。もっと早くお前を見つけたかった」
「ふふふ、ありがとうございます」

 鶯が可笑(おか)しそうに小さく笑った。
 しかし黒緋は不機嫌に目を据わらせる。

「なにが可笑しい。本気だぞ」
「ごめんなさい、そんなつもりで笑ったんじゃないんです。でもそんなこと言わないでください。私にとって地上での暮らしは大切な思い出になりました。苦しいこともあったけれど楽しいこともあったんです」
「……お前にそう言われると、俺は弱い。……ならばせめて聞かせてくれよ。その話しも」

 黒緋は弱ったような口調で言った。まさに惚れた弱みというものである。
 そんな黒緋に鶯はまた可笑しそうに微笑む。

「はい、約束しましたからね」

 鶯の微笑に黒緋も優しく目を細める。
 それは黒緋がずっと欲しいと思っていたものなのだ。
 そこにあるのは今まで想像もしていなかった家族の穏やかな日常。
 こうして黒緋と鶯と紫紺と青藍の四人は幸福な時間をすごすのだった。



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