腹黒御曹司の一途な求婚
 蒼士に声をかけ、お湯がなみなみと張られたバスタブに浸かった。直後、引き戸が開き蒼士がバスルームに入ってくる。
 
 背後から衣擦れの音が聞こえてきて、慌てて入り口とは反対側に視線をやる。
 目の前の全面窓から見えるのは、波打つ夜の海。
 今は暗くて景色はさほど見えないけれど、日の出や夕暮れ時になると海と空のコントラストがとても美しいらしい。

 窓はミラーガラスで、外からは見えない造りになっている。でも庶民(わたし)にはいささか落ち着かない仕様だ。
 体を洗っている際もソワソワしていたし、今もちょっと落ち着かない。それは、後ろで蒼士がシャワーを浴びている、というのもあるけれど。
 
 パシャ、と水が跳ねる音と一緒に、湯面が大きく揺れた。
 視線を正面に戻すと、烏の行水のごとく一瞬でシャワーを浴び終えた蒼士がバスタブの縁に腕を投げ出すようにして、湯舟に浸かっていた。

 水を含んだ前髪は無造作にかき上げられていて、しっとりと濡れた額が露わになっている。水粒と一緒に、色気も滴っていて若干目のやりどころに困る。

 蒼士が手招きをしてくるので彼の元に近づくと、くるりと体を反対向きにされて後ろから抱き込まれた。
 熱い肌と肌が触れ合い、しなやかな筋肉にすっぽりと包み込まれる。
 ドキドキするけれども、それ以上に安心する。
 ここが私の居場所だと肌に直接刻み込まれているようで。今日は、特に……。

「お疲れ様」
 
 労うように頭を撫でられる。すっかり馴染みある感触になった彼の手が心地いい。
 自然と頭が彼の方へ傾く。もっと触れてほしくて。

(お父さんには、こんな風に頭を撫でられたことはなかったかも……)

 朧げな幼い頃の記憶を思い起こすと胸が切なくなった。
 思えば、抱きしめてもらった記憶も、庭で遊んでもらった記憶もない。
 父にしてもらって嬉しかったことといえば、おもちゃを買ってもらったことくらいだろうか。
 
 幼い頃は、怒ることもなく、私が欲しがるものを何でも買ってくれる父を優しいと思っていた。
 でもそれは優しさでもなんでもなかったと、今なら分かる。

 私はただ、愛玩動物のように気まぐれに可愛がられていただけ。最初から愛されてなんていなかった。
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