腹黒御曹司の一途な求婚
 ふと脳裏に浮かんだのは、幼い頃父方の親戚の家に飼われていた猫のこと。
 昔すぎて詳細はよく覚えていない。でも撫でようとした時にシャーっと牙を剥かれたことだけは鮮明に覚えている。
 
 愛らしい猫が襲いかかって来るその姿が幼い私にはすごく恐ろしくて、それ以来猫は苦手だった。
 その猫と、目の前の女性となぜか重なる。背筋に緊張が走った。

「あんたのせいよ!!!どうしてくれるのよ!!」

 そう叫んだお嬢様はテーブルの上にあった水入りのタンブラーグラスを引っ掴み、それを投げつけてきた。
 自分に向かってくる、と気がついた時にはもう遅かった。避けられない。それでも咄嗟に、顔を手で防御する。
 
 飛んできたタンブラーグラスは鈍い音を立てて私の腕にぶつかった。骨にまで衝撃が走り、私はギュッと顔を歪める。
 
 ぶつかった拍子に中の水が勢いよくこぼれて、顔から胸にかけてぐっしょりと濡れてしまった。床に落ちたグラスが無残に割れる音が聞こえ、私の顎からはポタポタと雫が滴り落ちてくる。

 水を吸ったシャツが肌に張り付くのが冷たい上に気持ち悪い。店で扱っているグラスは分厚く、ぶつかった箇所がズキズキと痛む。
 
 さすがに澄ました表情などできずに痛みで顔をしかめていると、ガタンと久高くんが椅子を蹴倒すほどの勢いで立ち上がるのが見えた。彼は血相を変えてナプキンを片手に、私の元へと駆け寄ってくる。

「大丈夫か?!」

 目の前で跪いた久高くんは、手に持ったナプキンでびしょびしょに濡れた私の顔を優しく拭ってくれた。
 
 彼が腕を動かすと、ほのかに爽やかなベルガモットが香ってくる。
 間近で見る久高くんは、精悍な顔つきをした大人な男性だった。それでも目元に昔の面影を見つけて、ソワソワと落ち着きない気持ちが込み上げる。――そんな場合じゃないのに。

 私の顔面に付着していた水分をあらかた拭き終えると、久高くんは沈痛な面持ちで頭を下げてきた。

「すまない。あなたに危害を加えることになってしまって。本当に申し訳ない」
「と、とんでもございません……あの、顔を上げていただいて……」
「何してるの、このアバズレ!!蒼士さんから離れて!!!!」

 掻きむしるように顔面を手で覆ったお嬢様が、般若もかくやという形相でカツカツと猛々しくヒールを鳴らしながらこちらへ向かってくる。
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