腹黒御曹司の一途な求婚
 これでもう、お別れだ。
 実感すると、たちまち胸が強く締め付けられた。もっと一緒にいたいと浅ましい願いが顔を出しそうになる。
 
 けれども私はその願望を必死に押し込める。
 だって、今日だけのつもりだった。
 いくら名残惜しくても、これ以上求めてはいけない。私は彼に近づいてはいけないのだから。

 鞄から鍵を取り出そうとする久高くんに向けて、私は努めて明るい声で呼びかけた。

「じゃあ私、そろそろ帰るね。今日はありがとう、とっても楽しかっ……」

 別れの言葉は最後まで紡げなかった。振り返った久高くんが驚愕の表情で目を見開いていたから。

「…………なんで?」
「え、な、なんでって……」

 刹那、私の体が強く引っ張られた。視界が真っ白なもので覆われ、ふわりとベルガモットの香りが鼻腔をくすぐる。
 この状況を理解するより前に、私の耳朶をあたたかな吐息が掠めた。

「まだ帰したくない。帰らないで、萌黄」

 甘い懇願が注ぎ込まれ、彼の唇がかすかに触れた耳は火傷しそうなほど熱をもった。
 
 その言葉はどういう意味……?
 久高くんの胸に押し付ける形になっていた頭を持ち上げ彼を見上げると、まるで彫像のように整った顔立ちが眼前に迫っていた。「まだ一緒にいたい。萌黄は、イヤ……?」

 久高くんの透き通った双眸が私を真っ直ぐに見つめている。力強い眼差しから目を離せない。
 
 私はゆっくりと首を横に振った。
 多分私も酔っていたのだ。だってそうでなければ、私をがんじがらめにするしがらみを無視することなんてできない。
 何より、彼のこの真剣な表情を前に自分を偽ることなんてできなかった。

 鼻先が触れるくらいまで久高くんの顔が近づいてきて、私は慌てて目を閉じた。
 途端、唇に触れるのは柔らかいぬくもり。
 生まれて初めてのキスは唇が溶けてしまいそうなほど熱くて、アルコールの匂いが混ざっていた。
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