腹黒御曹司の一途な求婚
 父は所在なく目線を彷徨わせながら、机の上を滑らせて、私の目の前に一通の紙を置いた。
 一番上に、誓約書と書かれている。

『これにサインをしてほしい。……その、相手方のご両親からの希望でね』

 私はその誓約書を手に取って眺めてみた。
 絶望に打ちのめされた頭は、余計な雑念を考えることもしなくなっていたみたいだった。小難しい文面がするすると読める。

 内容はざっくりとこう書いてあった。
 
 生涯に渡って、美濃家およびその親類、そしてこれまでの友人知人との一切の関わりを断ち、交流も禁ずること。
 父、昭の遺産については相続を放棄すること。
 代わりに私に対して一千万円を贈与すること。
 最後に、この件については他言しないこと、と。

 全てを読み終えた時、私は手に持ったその紙をビリビリに破いてしまいたい衝動に駆られた。お金なんていらないから、私を捨てないでと叫びたかった。

 私は父をまっすぐに見つめる。内で暴れ回るこの激情が少しでも伝わってほしかった。
 けれども父は何を思ったのか、机に頭をぶつける勢いで私に向かって頭を下げてきた。

『頼む、萌黄……父さんはもう、一人で生きていくのは嫌なんだ……』

 嗚咽混じりの懇願が広いリビングに響き渡る。
 
 母が死んでから、この家はずっと空虚に支配されていた。
 かつては毎月のようにあった親族の訪れは母の死を境にめっきり減り、屋敷全体がシンと静まり返っていた。
 絵画や飾り壷が飾られ、華やかであるはずのリビングも彩りを失い、澱んだ空気が停滞していて。
 多分父は、この鬱屈とした家の中でずっと孤独に苛まれていたのだろう。
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