腹黒御曹司の一途な求婚
　だから何も言えなかった。
　私は黙ってペンを取り署名をした後、ご丁寧に父が持ってきてくれた私の印鑑をその隣に押した。
　
　私から誓約書を受け取った父は、震えて歪になった私の署名を心底ホッとした様子で眺めている。

　それを見て、私は机の下で拳を強く、手のひらに爪が食い込むほど握りしめた。じゃないと、瞳から涙が溢れてしまいそうだったから。

（お父さんは一人じゃなかったよ。ずっと私がいたよ……）

　母を喪ってぽっかりと穴の空いた心も、父と一緒に少しずつ埋めていけると思っていた。
　でもそんな幻想を抱いていたのは、私だけだったみたいだ。

　そんなこと、知りたくもなかった。

　私は無言のまま席を立ち、自分の部屋へと駆け込んだ。部屋に戻った瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出し、堪らずドアの前に蹲る。
　拭っても拭っても込み上げて落ちていく涙は、夜が更けても止まることはなかった。
< 60 / 163 >
表紙・目次

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop