悲劇のフランス人形は屈しない2
老女の名前は、友代(ともよ)さんと言うらしい。近所に住んでいるものの、中々時間が見つけられず公園への散歩は月に数回程度なのだそうだ。白石家がある方面とは逆の方向へと、友代は足を進めた。公園から歩くこと約5分、私たちは大きな平屋のお屋敷の前で、立ち止まった。
「こちらよ」
木製の表札には「原」と書かれていた。
横開きのドアを開けると、お手伝いさんが数人出て来た。
「友代さま!お怪我はありませんか?」
「大丈夫よ。さ、お嬢さんもあがって」
私は「お邪魔します」と呟き、お手伝いさんの一人にゴンのリードを渡すと、和の雰囲気に包まれた屋敷の中へと足を踏み入れた。
白石家のリビングとほぼ同じサイズの大きな和室に通され、久しぶりの畳の感触に思わず顔がほころんだ。遠い昔の実家の家を思い出す。
「緑茶でよろしいかしら?」
友代が聞き、私は頷いた。
「ありがとうございます」
テーブルの上に既に用意されているお茶のセットから、茶葉の缶を開け、丁寧にお茶を注いでくれている友代の手元を見つめた。部屋の中にふわりと緑茶の匂いが漂う。
「和菓子をお持ちしました」
着物姿のお手伝いさんが一人、襖を開けて入って来た。お盆の上には、二つの花型のお皿の上に、黄緑色の粉がかかった楕円形のお餅が乗っていた。
「鶯餅(うぐいすもち)でございます」
「あら、いいわね」
茶器を私の方に渡しながら、友代は嬉しそうに笑った。
「季節の茶菓子よ。どうぞ」
そう促されて、私はその餅菓子を一口頬張った。
「あ、美味しい…」
甘すぎない黄な粉と、ふんわりとした餅の口当たりが何とも上品な茶菓子だった。
「こんな優しい鶯餅を食べたのは、初めてかもしれません」
私がそういうと友代は満足そうに頷いた。
「そうでしょ。代々続く和菓子屋さんからいつも買っているのよ」
甘味の残る口で、友代の淹れてくれた緑茶を飲んでみる。渋みのあとから、茶菓子とは違う甘い味が追いかけてきた。
私はほうと息を吐いた。
(なんだか落ち着くな)
初めて訪れた場所なのに、この居心地の良さはきっと、この和風な建物が昔の家を思い出させるからだろうか。それから、さき程公園で見かけた、昔の自分の姿を思い出した。
「何か悩みごと?」
私の表情が変わったせいか、友代が聞いた。
「…いえ。ただ、昔を思い出すなと」
「あら。引っ越して来たの?」
思わず口を滑らせてしまい、私は慌てた。
「い、いえ。あの…」
「私もよ」
友代が言った。
「娘がね、好きな人と結婚するって言って家を出て行ったの。それから、しばらくの間この家で住んでいたそうなの。子供が生まれてからは、海外へ行ってしまって。娘が病気で亡くなったって聞いて、私はこの家に引っ越して来たの。あの時なんでもっと支えてあげられなかったんだろう、って今でも後悔しているわ。それから、娘の娘、私の孫ね、彼女も病にかかかり弱った体で日本に帰ってきたの。その孫の願望が、母が育った場所で過ごしたいだったの。それ以来私はずっと彼女と二人暮らしをしているわ」
友代はどこか遠くを見るような面持ちで言った。
(そうか、だからこんなに家が寂しいんだ…)
実家と似ているが、どこか違う。その雰囲気はきっと、大きな家にたった二人、友代と孫で住んでいることと関係しているのだろうか。
「あら、私ったら忘れていたわ」
友代はそう言いながら、横にある襖まで歩いて行き、静かに扉を開けた。その向こうも似たような和室になっていたが、一つ異なる点があった。天井まで付きそうな立派な木製の仏壇がどっしりと佇んでいた。
「娘も鶯餅が好きだったの」
古くなった茶菓子を下げ、代わりに鶯餅を供えるつもりのようだ。私に友代が手を付けていない皿を持ってくるように身振りで伝える。
「私も挨拶してもいいですか?」
友代に茶菓子を渡し、聞いた。
「あらいいの?優しい子ね」
私は仏壇の前に座り、手を合わせた。
心の中でこの家にお邪魔していることを伝えると、ゆっくりと瞳を開けた。
写真立ての中の女性は、まだ若く、肩まで伸ばした黒髪に軽くパーマをかけていた。
(どこかで…)
見覚えのある凛とした顔立ちに私は一瞬考えたが、すぐに思いつく人がいた。
(もしかして。ここは、この家は…)
「あの、友代さん」
私は後ろに控えていた友代に声を掛けた。
「もしかして、そのお孫さんって真徳高校に通っています?」
「え?そうね。ただ毎日通うことは難しいけれど。あら、まさかお知り合い?」
「その方のお名前は…?」
「響子よ。西園寺響子」
全身がどくんと波打った。
(ここにいてはヤバい)
年始に彼女が自分を見失って怒る様を見たのは記憶に新しい。ここにいることが知られたら、何をされるか分からない。漫画に出て来ること以上の事件はなるべく避けたい。
「申し訳ございません、友代さん。急用を思い出してしまったので、これで失礼します」
私は膝をついたまま一礼をし、立ち上がった。
「あら、残念」
友代は何も疑問に思うことなく、私を玄関まで送ってくれた。
そして私を見送る手前で、こう言った。
「響子は、入院生活が長いの。学年が越えられないこともあったわ。だから、もし良ければ仲良くしてほしいの」
悲しい光を瞳の奥にちらつかせる友代に、私は頷くことが出来なかった。
(西園寺が世界で一番憎んでいる人が、私なんです…)
最後にもう一度お辞儀をし、お礼を言うと、急いで帰路についた。
「こちらよ」
木製の表札には「原」と書かれていた。
横開きのドアを開けると、お手伝いさんが数人出て来た。
「友代さま!お怪我はありませんか?」
「大丈夫よ。さ、お嬢さんもあがって」
私は「お邪魔します」と呟き、お手伝いさんの一人にゴンのリードを渡すと、和の雰囲気に包まれた屋敷の中へと足を踏み入れた。
白石家のリビングとほぼ同じサイズの大きな和室に通され、久しぶりの畳の感触に思わず顔がほころんだ。遠い昔の実家の家を思い出す。
「緑茶でよろしいかしら?」
友代が聞き、私は頷いた。
「ありがとうございます」
テーブルの上に既に用意されているお茶のセットから、茶葉の缶を開け、丁寧にお茶を注いでくれている友代の手元を見つめた。部屋の中にふわりと緑茶の匂いが漂う。
「和菓子をお持ちしました」
着物姿のお手伝いさんが一人、襖を開けて入って来た。お盆の上には、二つの花型のお皿の上に、黄緑色の粉がかかった楕円形のお餅が乗っていた。
「鶯餅(うぐいすもち)でございます」
「あら、いいわね」
茶器を私の方に渡しながら、友代は嬉しそうに笑った。
「季節の茶菓子よ。どうぞ」
そう促されて、私はその餅菓子を一口頬張った。
「あ、美味しい…」
甘すぎない黄な粉と、ふんわりとした餅の口当たりが何とも上品な茶菓子だった。
「こんな優しい鶯餅を食べたのは、初めてかもしれません」
私がそういうと友代は満足そうに頷いた。
「そうでしょ。代々続く和菓子屋さんからいつも買っているのよ」
甘味の残る口で、友代の淹れてくれた緑茶を飲んでみる。渋みのあとから、茶菓子とは違う甘い味が追いかけてきた。
私はほうと息を吐いた。
(なんだか落ち着くな)
初めて訪れた場所なのに、この居心地の良さはきっと、この和風な建物が昔の家を思い出させるからだろうか。それから、さき程公園で見かけた、昔の自分の姿を思い出した。
「何か悩みごと?」
私の表情が変わったせいか、友代が聞いた。
「…いえ。ただ、昔を思い出すなと」
「あら。引っ越して来たの?」
思わず口を滑らせてしまい、私は慌てた。
「い、いえ。あの…」
「私もよ」
友代が言った。
「娘がね、好きな人と結婚するって言って家を出て行ったの。それから、しばらくの間この家で住んでいたそうなの。子供が生まれてからは、海外へ行ってしまって。娘が病気で亡くなったって聞いて、私はこの家に引っ越して来たの。あの時なんでもっと支えてあげられなかったんだろう、って今でも後悔しているわ。それから、娘の娘、私の孫ね、彼女も病にかかかり弱った体で日本に帰ってきたの。その孫の願望が、母が育った場所で過ごしたいだったの。それ以来私はずっと彼女と二人暮らしをしているわ」
友代はどこか遠くを見るような面持ちで言った。
(そうか、だからこんなに家が寂しいんだ…)
実家と似ているが、どこか違う。その雰囲気はきっと、大きな家にたった二人、友代と孫で住んでいることと関係しているのだろうか。
「あら、私ったら忘れていたわ」
友代はそう言いながら、横にある襖まで歩いて行き、静かに扉を開けた。その向こうも似たような和室になっていたが、一つ異なる点があった。天井まで付きそうな立派な木製の仏壇がどっしりと佇んでいた。
「娘も鶯餅が好きだったの」
古くなった茶菓子を下げ、代わりに鶯餅を供えるつもりのようだ。私に友代が手を付けていない皿を持ってくるように身振りで伝える。
「私も挨拶してもいいですか?」
友代に茶菓子を渡し、聞いた。
「あらいいの?優しい子ね」
私は仏壇の前に座り、手を合わせた。
心の中でこの家にお邪魔していることを伝えると、ゆっくりと瞳を開けた。
写真立ての中の女性は、まだ若く、肩まで伸ばした黒髪に軽くパーマをかけていた。
(どこかで…)
見覚えのある凛とした顔立ちに私は一瞬考えたが、すぐに思いつく人がいた。
(もしかして。ここは、この家は…)
「あの、友代さん」
私は後ろに控えていた友代に声を掛けた。
「もしかして、そのお孫さんって真徳高校に通っています?」
「え?そうね。ただ毎日通うことは難しいけれど。あら、まさかお知り合い?」
「その方のお名前は…?」
「響子よ。西園寺響子」
全身がどくんと波打った。
(ここにいてはヤバい)
年始に彼女が自分を見失って怒る様を見たのは記憶に新しい。ここにいることが知られたら、何をされるか分からない。漫画に出て来ること以上の事件はなるべく避けたい。
「申し訳ございません、友代さん。急用を思い出してしまったので、これで失礼します」
私は膝をついたまま一礼をし、立ち上がった。
「あら、残念」
友代は何も疑問に思うことなく、私を玄関まで送ってくれた。
そして私を見送る手前で、こう言った。
「響子は、入院生活が長いの。学年が越えられないこともあったわ。だから、もし良ければ仲良くしてほしいの」
悲しい光を瞳の奥にちらつかせる友代に、私は頷くことが出来なかった。
(西園寺が世界で一番憎んでいる人が、私なんです…)
最後にもう一度お辞儀をし、お礼を言うと、急いで帰路についた。