悲劇のフランス人形は屈しない2

修学旅行2

「しまった。やられた…」
私は部屋の前に立ちつくしたまま、ぼそりと呟いた。何度扉を叩いても、鍵が開く気配はない。扉に耳をつけ、中の様子をうかがう。
「もう、藤堂さまったら~!」
「本当よ~」
女子たちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。誰かがスピーカーを持って来ているのか、リズムの良い音楽も聞こえてくる。これでは何度叩いたところで、ノック音など聞こえるはずがない。
「策士め…」
私はもう一度大きなため息を漏らした。
修学旅行前、先生に藤堂と同じ部屋割りだと聞かされて以来、嫌な予感はしていた。しかし原作には部屋割りに関する事件は描かれていなかったので、思いっきり油断をしていた。
観光から帰ってきた後は、高校生に出される食事とは思えないほど豪勢な京の懐石料理を味わった。私の存在はまるで空気のようだった。誰の視界にも入らず、話かけられもしない。食事が終わると、皆でお風呂に行くかと思いきや、気分が高揚している女子たちの会話は、修学旅行恒例の恋バナへと発展していった。しかし、そこで藤堂が私をちらりと見てから「仲良い子にしか言いたくない」と呟き、半ば追い出される形で、私は温泉へ向かった。
人生初とは言わないまでも、久しく温泉を味わっていない。のぼせるくらいに長湯をしたあと部屋に戻ると、鍵がかかっていた。そして今に至る。
私はトボトボと歩きながらロビーに向かった。
真徳高校の貸し切り旅館のため、夕食時間を過ぎると、ほとんどの場所が消灯するらしい。しかし、ロビーのある階だけはまだ煌々と灯がついていた。私は安心して、普段はチェックイン待ちの人が座っているであろう、ふかふかのソファーに腰かけた。外の景色が満喫できるよう、等間隔で並べられた一人掛けのソファーは全て窓の方を向いていた。大きな窓の向こうには池があり、外灯に照らされて赤や黄色の鯉が優雅に泳いでいるのが見えた。
ふと顔を上げ、時計を確認する。まだ夜の8時を回ったばかりだ。
(消灯点呼が10時だったっけ)
今頃生徒たちは、楽しくトランプでもしているのだろうか。そんなことを考えながら、ぼんやりと外と眺めていると、後ろからヒソヒソ声が聞こえた。
私は思わず肩をすくめ、ソファーの中で身を縮めた。声は控えているものの、堂々とフロントの前を通り、外に出ようとしている天城と西園寺の姿が見えた。
(あのシーンか)
白石透がたまたま目撃してしまい、二人の後を付けたところ、見つかった天城に、西園寺の前で悪態をつかれるという場面だ。私は二人が外へ出て行くのを見届けたあと、ソファーに座り直した。
(無視してみよ)
今日は一日中慣れない土地で歩き回ったせいか、かなり体が疲れていた。また、久しぶりの温泉で調子に乗ったせいで、湯あたりもしている。
先生の点呼のタイミングで部屋へ戻ろうと思い、私は目を瞑った。高音で鳴く秋の虫の声が耳に心地よい。うとうとと眠りに落ちそうなところで、誰かに肩を揺さぶられた。
「透」
一番気持ちの良い時に起こされ、私は思わず顔をしかめた。
「なんで、ここで寝てんの?」
五十嵐が私の顔を覗き込んでいた。温泉に行った帰りなのか、髪の毛から滴が垂れている。相変わらず前髪は長いままだが、その隙間から青い瞳が覗いていた。
「休憩よ」
私は短くそう言うと、また瞼を閉じた。しかし、隣に座る気配がして私は目を開けた。
(なぜここに居座る…?)
「部屋に戻らなくて良いのかしら?」
体を起こし、五十嵐の方に向いた。
「うるさい」
いきなりそんなことを言われ、私は目を見張った。それを察したのか、五十嵐が片目を開けて、私の方を見た。
「部屋が」
「ああ…」
(びっくりした。いきなり五十嵐が怒ったのかと…)
「皆で枕投げしてるから」
面倒臭そうに五十嵐はため息を吐いた。
「そう。楽しそうね」
蓮見が誰よりも騒いでいる様子が目に浮かぶ。
(修学旅行と言えば枕投げなのは、どこの世界でも同じか)
そんなことを考えていると、五十嵐が言った。
「行く?」
「どこへ?」
「男子部屋。枕投げしに」
私は目を丸くして、眠そうな五十嵐を眺めた。
(なぜ?)
「女子も来てるよ」
五十嵐はまた大きなため息を吐いた。
「だから更にうるさいんだけど」
その時、ロビーがガヤガヤとしたと思うと、数人の若い先生たちがやって来た。私はまた無意識に体を縮こませ、ソファーの隙間から彼らの様子を眺めた。
「D組の吉田が酒を持って来てたよ」
「毎年だな。こっちは、音楽の音量だ。苦情が来ないかハラハラしてるよ」
「今回も外れの年だな」
「去年よりはマシじゃないか。とりあえず、温泉入ってゆっくりしよう」
「没収したビールでも飲むか」
「ダメだ。点呼の時間になったらまた見回りだぞ」
どこか疲れた様子で先生たちはロビーを横切り、男湯へと向かった。
「先生たちも大変ね」
ソファーに深くもたれ、私は呟いた。
大学を卒業したばかりの若い先生もいるはずだ。接したこともないが、自分よりまだ年下の先生たちがなぜか気の毒になってしまった。
(子供の世話って疲れるだろうな)
そんなことを考えながらぼんやりと窓の外を眺めていると、五十嵐が聞いた。
「戻らないの?」
「私はまだここにいるわ。あなたは戻って、髪の毛を乾かしなさいよ。風邪引くわよ」
五十嵐はしばらくの間、私のことをじっと見ていたが、そのまま何も言わずに部屋へ戻って行った。ロビーにまた静けさが戻って来た。
私は窓の外を見た。先ほどまで泳いでいた鯉が、今はじっとしている。
「あなた達は寝る時間ね」
そうぼそりと呟き、私はロビーの時計に目をやった。まだ点呼の時間まではある。今戻ったところで、藤堂が鍵を開けてくれる可能性は低いだろう。
私はゆっくりと瞼を閉じた。そして今度は誰にも邪魔されず、気持ち良く深い眠りに落ちていった。
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