身代わりで嫁いだお相手は女嫌いの商人貴族でした
 さて、アメリアはアウグストが去った室内で、息を整えていた。僅かな時間であったが、彼が彼女の部屋にやってくるのは珍しいことだったし、何より、下手くそな刺繍を見られるのではないかとハラハラして気が動転していたからだ。

(でも……わたしが好きなものを聞いてくださるなんて)

 それが、事務的な会話だとしても嬉しいと思う。本当ならば、自分用の飲み物など用意をしてもらわなくとも、何かしらあればそれで良いはずだ。何かは飲めるだろうと思える。だが、そこであえて自分用にと言ってもらえるなんて。

「それに……相談、と言ってくださったわ……」

 今でも思い出しただけで胸が高鳴る。自分に相談。そんなことを今まで言ってくれた人間がいただろうか。これまでの人生一度だって、そんな言葉を言われた記憶がない。

 それは、彼にとってはなんということもない言葉でも、アメリアにとっては大切なものだった。じんと胸が熱くなる。ああ、たったこれだけのことなのに。なのに、こんなに嬉しいなんて。

(わたしは本当にここでアウグスト様の妻になれるんだろうか……)

 未だに、どこか現実感はない。だが、初日にあれだけ冷たく突き放されたことが今では嘘のようだとすら思えてしまうのだから、慣れというものは恐ろしい。けれど、アメリアはどこかで「慣れてはいけない」とも感じていた。

 それは、やはり自分はカミラの身代わりでここに来たこと。そして、アウグストに大量の結納金を出させたから結婚をしないわけにはいけないこと、そういったしがらみが彼女の心の中に残っているからだ。

 彼らは互いに不自由だ。心のどこかで自分たちの始まりを意識して、己の想いに枷をしているようだった。決して互いに踏み込まないように、一線を置いているのもそのせいなのだろう。

「ああ、でも……」

 アメリアは、まったくうまくいかず、縫ってもきちんと揃わない刺繍を見つめた。そう大したステッチは覚えていない。ただ、図案を埋めていくだけのことがこんなにも難しい。そのことを彼女は初めて知った。けれども。

「こんな刺繍でも、あの方は笑わずにいてくださるのかしら……」

 アウグストはどこか皮肉屋めいたところはある。しかし、彼はアメリアがテーブルマナーに慣れないことも、会話がうまく続けられないことも、言葉以上のことをうまく深読みできないことも、何もかも、馬鹿にしたりはしていないと彼女はもう気が付いていた。

 彼は素っ気ないし、時折ぶっきらぼうだったりもするけれど、決してアメリアのことを笑わない。それは、勿論彼にとって「期待していない」だけかもしれないが、だからといって馬鹿にすることもなかった。だから、少しだけ信じてみたい気持ちが心の中で湧きあがる。それに。

(アウグスト様……)

 今晩は庭園に行っても彼は来ないのだ。当然、今までだってそんなことは普通にあった。彼が昼から問題なくバルツァー侯爵家にいたこともあれば、今日のように外泊をしたことだってある。その日、アメリアは庭園で一人でしばらく歩き、それから寝室に戻って眠る。何の問題もなくそう過ごしていた。

 だが。不思議なもので、何故か「今日は庭園に行かなくてもいいのだ」と、先ほど彼女はふと感じた。なんということか。それではまるで、アウグストに会うために夜の庭園に自分が通っていたかのようではないか……アメリアは小さくため息をついて、ソファに背を預けた。

「ああ、わたし……」

 一体、どうしてしまったのだろう。どこで間違えたのだろうか。いや、間違えではないのかもしれない。ただ、一体何故……ぐるぐると答えのない問いが脳内に繰り返される。

 本当の答えはわかっているのに、それと今はうまく向かい合えない。ただ、鼓動がどきどきと高鳴って「心が震えている」と彼女は自分の胸を両手で押さえた。

 彼らはそうやって日々を繰り返し、僅かながらに互いの距離が近づいていく。
 そして、ついに婚姻式とお披露目会当日となるのだった。
< 30 / 46 >

この作品をシェア

pagetop