だって、そう決めたのは私

第28話 私のテリトリー

 帰宅すると、宏海が靴を履くところだった。迎えに行こうかと思ったのに。彼はそう言ってガクリと肩を落としたが、私は笑ってしまった。改札から徒歩三分。ここを選ぶ時に、できるだけ駅から近い物件にしたのだ。彼はそれでも心配をしてくれたらしい。最近は物騒だから、とブツブツ言う背中が愛しかった。

「池内くんから、カナちゃんと会ったって連絡きたよ。ササキくんは帰っちゃったんだってね」
「そうそう。急な仕事が入っちゃったとかで」
「そっかぁ。残念だったね」
「池内さんが、いずれアトリエで会えますよって言ってた」
「あぁ確かに。カナちゃん、アトリエに来たことないよね。今度さ、実家に行くことあったら寄ってよ。特に何もないけどさ」
「うん、行くよ。一度も行ったことないからさ。今日、掘り下げられたらどうしようかと思ったの」

 だよねぇ、と呑気に返事をした宏海は、少し眠そうに小さなあくびを噛み殺している。それがまた可愛らしいと感じるのに、どこかモヤモヤしてしまう。宏海は抵抗なく、自分のテリトリーに私を誘った。素直に喜べばいいのに、匡を誘うのと同じだろうかと思ってしまう。面白くないなんて、実にくだらない。

「そうだ。カレンダーには書いたけれど、十六日の金曜日はお弁当いらないからね」「うん。分かってる。その日は何かあるの?」
「あぁ、ううん。何も無いよ。ちょっと用事があってね」

 真実など言えない。暁子にだけは話してあるけれど、もう誰にも言うつもりはない。チクチク胸の中が騒いでいるが、笑顔を繕う。これだけは、悟られてはいけない。

「カナちゃん、あったかいお茶飲む?」
「あ、飲む。冷たいの飲んできたから、少しお腹冷えちゃった」
「あらら。じゃあ、気持ち熱めにするね」

 鼻歌を歌いながらキッチンへ行った宏海を見ながら、私は同じように自分のテリトリーに彼を誘えるかと問うていた。携帯に触れた指は、慣れたものでSNSのアプリを流れるように立ち上げる。投稿などしない。ただ唯一フォローしているアカウントを覗くだけだ。古ぼけたクマのぬいぐるみのアイコン。十八時に投稿される写真と短い一文。それを寝る前に見て、一日を終える。宏海のアトリエのように、気軽に他人に言えない、触れられたくない。私の細やかなテリトリー。
< 129 / 159 >

この作品をシェア

pagetop