だって、そう決めたのは私
「日が、暮れましたね」

 バクバク言う心臓を誤魔化せず、そんなことを口走る。ここで、この人が自分のことを微塵にも思っていないのならば、もう諦めよう。そう決意はしたくせに、強い言葉を突きつけてやれない。また、何かあったのかと問てみるが、彼女は何もないとしか言わなかった。そうして歯を食いしばり、グッとそれを堪えようとするのだ。だから、問うてみたかった。

「何も無いのに……どうして?」

 どうして、ここで泣いているのか。どうして、今日なのか。

 苦しそうにするくせに、それを見せまいと必死に堪える彼女。「泣きたいなら泣いたら良いと思います。気が済むまで」そう言ったのは本心だ。心が何かとせめぎ合う。憎しみ、苛立ち。それから、ほんの少しの期待。

 あの時、本当は何があったのか。俺は、何も知らない。誕生日の次の朝、大事にしていたくまのぬいぐるみと一緒に母は消えた。父に聞いても、出て行ったとしか教えてくれない。急に現れた祖母には、お前は捨てられたんだ、と抱きしめられた。覚えているのはそれくらいだ。後のことは、ほとんど記憶に残っていなかった。呆然と生き、必死に笑っていた気がする。

 遠い記憶を引っ張り出している俺の隣で、その人は静かに首を振った。

「気が済む……ですか。これまで泣いてもいいのは今日だけ。一年で一度だけ。そう決めて生きてきました。でも……今日が一番、私が泣いてはいけない日でした」

 今日は泣いて良いと決めて生きてきたけれど、一番泣いてはいけない日。それが、今日? 淡い期待が僅かに膨らむ。この人の中に俺という存在があった。それだけで、自分が教えられていた母と違うと悟る。もう既に、父と祖父母には不信感しか持っていない。だからだろうか。

 でも、それは偶然かも知れない。この人は母だと思うけれど、俺の誕生日だからとは思っていないかも知れない。それを確認しようと問うた言葉。声が、ひどく震えた。
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