だって、そう決めたのは私
「本当は違うの? ねぇ、何が正しいの?」

 カナタは全てを聞きたいのだろう。グイッと身を乗り出した。

 話し始めてしまえば、言葉は簡単に続くだろう。だけれども、それが彼のためになるとは思えない。カナタは、もうぬるくなった三杯目のビールに手を伸ばした。ごくんと喉を鳴らして、ふぅぅ、と長い息を吐く。きっとすごく緊張している。この子は二十五になった大人だけれど、アレの全ての顛末を聞かない方がいい。彼の様子を窺って、大事なことだけを伝えることに決めた。

「実際にあったこと全てを、カナタは知りたいと思ってるのかも知れないけれどね。どんなやり取りがあって、パパとお別れしなければならなくなったのか。それは、あなたは知らなくて良いことなの。母さんが信じて欲しいのは一つだけ。私は浮気なんかしていない。それだけよ」

 全てなど、言えるはずもなかった。彼と義実家との関係は分からないが、知らない方がいい。私は、誰かが描いた物語の一つのコマに過ぎなかった。つまりは、そういうことだ。

「じゃあ……どうして?」
「そうね。きっと母さんが、ちゃんと母親を出来なかったのが原因なんだと思ってる。ママ、夜にお仕事に行くこともあったよね? 牛の出産とかね。そういう呼び出しだったんだけど。あの頃の母さんは、まだ駆け出しだったから。経験を積みたくて、出来るだけ行くようにしてた。でもきっと、それがいけなかったんだと思うの」

 あの頃の私は、母としても、獣医師としてもどっち就かずだったと思う。新人の獣医たちに比べて、どうしても経験や勉強の時間が足りない。そんなことは分かった上で、私はカナタを産んだ。それに後悔はない。だが当然、意地もあったのだと思う。寝る時間を惜しんで、イレギュラーな診察にも対応し、子育てだって必死にやった。それは、私なりにだけれど。定時に帰れる仕事だった夫が、積極的に子育てをしてくれたことは幸いだった。夫婦二人で力を出し合って、家族というものを守っていられたから。いや……守られていたのは私の尊厳だけだったのかも知れない。
< 172 / 208 >

この作品をシェア

pagetop