だって、そう決めたのは私

 一人ホテルに泊まった息子の誕生日の夜。きっとここにはもう来ないだろう。そう思っていた。職場に退職届を出しに行ったのは翌日。こっそり挨拶をしてくれた人もいたし、冷たい顔をする人もいた。ここでの私の最終評価はこんなものか。溜息を吐きながら見慣れない高級車を横目に駐車場を出て、愛車の軽で小林牧場に行った。迎えてくれたご夫婦と牛と猫。温かいお茶を淹れてもらって、泣きながら事情を説明する私に、彼らは深くは何も言わなかった。きっと、薄暗い何かが耳に届いていたのだろう。とても悔しかった。カナタに私の居場所を示す物を何も残してこられなかった私に、渡しには行けないけれど預かってあげるよ、と小林さんが言う。そして託したのが、あのくまのぬいぐるみ。いつも手帳に挟んでいた、実家の前で撮ったカナタの写真と共に。新しいリュックサックを背負って、それを見せびらかすような息子を目に焼き付けて、裏に実家の住所を書き留めた。愛しているよカナタ、と添えて。 

「カナタがどう言われて育ってきたのか、私は何も知らない。言いたくなったら、どんな話でも聞くつもりだけれど……それは、無理にこじ開けるものでもないから。カナタのペースで、今後は話をしましょう」

 小さく頷いた息子。別れた夫が許せなかった。

 実家に帰り、今の病院に再就職して、少し経った頃。時間とともに冷静になった私は、あれこれと思い出し始めた。最後に職場に行った時、感じた違和感。駐車場にあった高級車。軽トラックや軽自動車ばかりの中で、浮いていたのを思い出す。先輩のボロボロの軽自動車はあった? あの車はいくら位で買えるもの? そうして疑念を強くした私は、誰にも知らせず、東北新幹線に飛び乗り、たった一人であの地へ行ったのだ。盛岡でレンタカーを借りて、真っ直ぐに義実家に向かって。元夫にこの憤りをぶつけ、正当に裁判をやり直したいと話すつもりだった。

 けれど、それは叶わなかったのだ。
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