だって、そう決めたのは私

第9話 卵焼き

 食後にトリーツのサンプルを取りに来たのは、百合の部下だった。課長の五十嵐《いがらし》渉《わたる》。もう四十も過ぎた頃だろう。泊がなく、いつも部下たちの中に混じり込んでは、キャッキャと楽しそうにしている印象だ。それでいて仕事上では頼りになるらしく、下からの信頼は厚い。百合も可愛がっているし、上からも、下からも愛されている。そんなちょっとマスコットのような男は、彼は百合のお使いで私のところに来て、この営業の話をポロッと零していった。上手くいけば、販路拡大に繋がるものらしい。頑張ってきます、と意気揚々と去っていった彼を、不安な気持ちで見送ったのは言うまでもない。

「カナちゃん、おかえり」
「ただいま。疲れたぁ……」
「今夜の夕食は、軽めにしたよ」
「わぁ、有り難い。暑いと食欲もなくなるよね」
「お、良かった。今日は冷しゃぶサラダと焼きおにぎりだよ」

 やった、なんて言葉が自然と出て、逃げるように洗面所へ駆け込んだ。手を洗って、疲れ顔を眺める。あぁもう顔も洗ってしまおうか。そちらを見ないままヘアバンドを手に取り、メイク落としを馴染ませる。こんな風に欲しい物がどこにあるか分かって、居心地の良い居城が出来上がっているんだな。ここに暮らし始めて、もうそれくらいの時が経っていると実感した。


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