フェイクピアス

自覚

私の目を覚ましたのは、小鳥のさえずりなんて洒落たものではなく、おかしな体勢で寝ていた自らの身体がバキバキと音を立てるのが聞こえたからだ。なんて不健康な朝だろう。

目を開ければ飛び込んできたのは見慣れない天井。残念ながら、この状況に至った経緯は鮮明すぎるぐらいにわかっていたから、隣でそれはすやすやと眠る家主に目をやる。

後輩の異性を家に泊めておいて、みじんも意識しないとはどういう了見だろうか。脈なしもここまでくると、いっそ心臓自体がないんじゃないかと思ってしまう。あんなことがあったのに、それを一ミリも感じさせない態度に、おもわず深いため息をこぼすが、身じろぎもせず先輩は寝入ったままだった。

今までに見たことのない、そのあどけない寝顔を、かわいいと思ってしまった私は、どうも手遅れらしい。苦笑をもらし、身支度を始めた。ぼんやりと、今までのことを思い出しながら。



 特段変哲のない大学生活だった。実家から徒歩五分の距離にあるそこそこ難しい国公立大学に、一浪して進学した私。

オールラウンドのサークルに入り、教員採用試験の勉強をし、塾で割に合わない、でもやりがいはあるバイトをする。そんなかわり映えのしない毎日を送っていた。

周りの子たちが、推しが、好きな人がなんて話で盛り上がる中、こちらに話を振られたときは、なんとなく考えたくもなくて受け流していた日々。そんな生活のすべてが変わったのはそのサークルで企画された新歓ドライブだった。

やたらと人の多いサークルだから、班分けも10班近くあって。メンバーがくじ引きで決まった時には、正直心配だった。しゃべったことがほぼない人しかいない。何なら一人は全く話したことない先輩。

でも、そんな懸念も嘘のように、ドライブは驚くほど楽しかった。ラフティングをして、砂浜でバーベキューして、温泉に向かって。なんの計画性もないからグダグダにはなっていたけど、そんなところも含めて、なんだろう、学生してるな、なんて思ったりしていたのだ。でも、

「一年生楽しめてる?特にゆあ、一女一人だから心配でさ。」

コンビニで休憩中、思案にふけってぼんやりしている私を心配してくれたのだろう、先輩に声をかけられた。大和さんに気を使わせてしまったことを申し訳なく思いつつ

「すみません、大丈夫です。何ならめちゃめちゃ楽しんでるので!」

そう返すと、大和さんは安心したように笑った。

「ならよかったよ、班のメンバーとは仲良くなれた?」

「はい、みんな仲良くしてくれてありがたいです。あ、でも」

いい淀み、一瞬曇らせた表情を、聡い彼が見逃すはずもない。

「誰か喋れてない人でもいる?あ、それとも俺らなんかまずいことしちゃった!?」

焦ったように身を乗り出す彼に一瞬たじろいだ。

「いえ!ただ、二年生の先輩、えっと、中島さんですよね。あの人だけ、ほとんどまだじゃ話してなくて」

「ああ、蒼唯(あおい)かあ。自分から積極的に話すほうじゃないからなあ。話しかけてみなよ、こっちから話しかければ絶対話してくれるし仲良くなれるから。いい奴だよ、俺らから見てもな。」

うってかわって柔和な表情をして私の背中をとんと押した大和さんは、気づくと車に戻ってしまった。押し出された私の視線の先にいるのは、もちろんその先輩で。私も自分から話しかけるのは苦手なくせに、ここで引き下がるのも癪な気がして、歩みを進めた。

そのまま、話しかけようとしたはいいものの、とっさに話題が思い浮かばなくて、立ち止まる。そんな私の気配に気が付いた中島さんはこちらを振り返ると、驚いたように少しだけ目を見開いた。

「優愛?どうかしたの」

「いえ、特にどうしたというわけではないんですけど」

「余計にどうしたん、車疲れた?」

そういって困ったように少しだけ眉根を寄せる先輩の表情は、普段から大きく動くことはない。でも、心優しい人だというのは、このやり取りだけでも分かる。対して話したこともない私のことを、純粋に心配できる人だ。きっと、少し不器用な人なのだろう。肩の力は抜け、自然に笑みがこぼれた。

「ほんとに何でもないんです。中島さんとだけ全然話せてないって大和さんに言ったら、話して来いって言われて」

言い訳に使ったことを心の中で謝りながらそう告げる。

「あぁ、なんだ。俺となんて、別にいつでも話せるやん。話しかけてくれたら普通に話すよ。俺が後輩に自分から話しかけんの、苦手なタイプだからさ。」

またいつもの真顔に戻り、淡々とそう告げるその人に、なんだか少し腹がたつ。こっちは必死に話しかけようとしたけなげな後輩なのだ、少しぐらい話をつないでくれても罰は当たらないんじゃないだろうか。

「私も話始めるの苦手です。だから、たしかにいつでも話せるかもしれないけど、今このドライブのタイミング逃したら一生まともに仲良くなれないと思ったので」
思わず言い放ってしまった言葉に、一瞬遅れて、まずい、言いすぎたとはっとする。でも

「言われてみればそうかもね、でも、別に俺なんかに頑張らなくてもいいのに」

なんてこぼす彼のことは、やっぱり無性に否定したかった。

「頑張ります、なんか逆に仲良くならないといけない気がします。」

「それなに、俺今なんか脅されてる?そもそも仲良くなりたくないって意味じゃないからね、頑張らなくても自然に仲良くなれるんじゃないってことで」

なぜだろうか、若干の焦りを見せる先輩の、表情の変化を、もっとみてみたいと思ったのは。

「とにかく、頑張るので!」

「わざわざ頑張んなくても大丈夫だって今言ったばっかやん」

ふっと笑った、切れ長の目。今まで似た中で、一番穏やかなはずのその目から、なぜか逃げられなかった。わからなかった推しの話、勢いについていけなかった好きな人の話。うるさいぐらいに高鳴る心臓が、その答えを示そうとしてくる。そうか、この世界が塗り替わるような感情をあの子たちは、もう持っていたのか。

「手始めに中島さん、あおいさんって呼んでいいですか」

「そんなもん確認しなくていいよ、気楽にして。てか多分みんな待ってる。そろそろ車戻るよ」

この時、私はこの感情まだに名前は付けられなかった。それをするには、私はまだ何も知らなかった。自分のことも、彼のことも。知らないほうが、幸せだっただろうか。


 なんだか意味ありげにいってしまったけど、それからのサークルでも、特段彼と仲良くなるということもなかった。いたって普通の先輩と後輩。ほかの人たちと何ら変わらないどころか、遠いぐらいの関係を築いていた。

それもそうだ、毎週金曜日の活動も、私は毎回顔を出していたけど、彼のことはいつも見かけるというわけではない。なんでも推し活で忙しいとか。だから、彼がサークルに来れば挨拶をするぐらいの関係。

そんなもんだ。ドライブの時は、イベントのテンションで絡んでしまっただけだったのだから。お互いに、自分から積極的に話すほうでもない私たちに、それ以上のかかわりが生まれなかったのは、ある種必然ともいえよう。それを残念に思う自分もいるけど、現実はドラマみたいにうまく進んでくれたりはしない。

そんな中だけど、けして劇的とは言えない変化は訪れた。もはや恒例ともなっていた飲み会だ。もちろん、私はまだ一年だ。飲まない。いや、実をいうと飲めるのだけど、みんなに浪人のことは言っていないから、表向きは飲めない。一応そこは健全なサークル、らしい。

ただ、のみの大好きなサークルであることもまた事実で、合宿なんかやった日にはコールが響き渡り、悲惨な翌朝を迎えることになる。その日の飲み会は、先輩方が少々調子に乗ってしまったらしかった。

数名の泥酔を抱え、自分が乗ってきた自転車に乗って帰れなくなった人まで発生。あきれる気持ちから、ただただ零れたため息は、そのまま夜更けの街に溶けてゆく。幸い私は歩き。時間もそう遅くなかったので、夜風に当たりながら、乗り手を失った自転車をのんびり押して帰ろうと思っていた。

そう、何の問題もなかったのだ、この時までは

「あーいいよ、それ俺が押して帰る。一年に押し付けられないでしょ」

耳なじみのいい、低めの、それでいて甘めの声に、息をのむ。後ろから投げかけられた言葉の主は、振り返るまでもなくあおいさんだった。

「いや、大丈夫ですよ。それにあおいさんも酔ってるじゃないですか」

驚きのあまりかわいげのない返答をしてしまった私を誰が責められよう。それに少なくとも、先輩はだいぶ酔っていた。とてもじゃないが、任せられない。

「そんな疑わなくて大丈夫だから。うん、じゃあ分かった、自転車、片方持ってよ」

「は?」

ついには上げた声が酷いことも、許してほしい。どう考えてもこの反応が正しいと思う。自転車の片方って、なんだよ。

混乱している私をよそに、さっとハンドルを片方とると、行くよといわんばかりの目線をこちらに向けて歩き出した。おいていかれるわけにもいかない私は、自転車に引きずられるようにそのあとに続く。幸い、誰もこちらの様子になど気づいていないようで、私たちはさっさと酒飲み烏合の衆から抜け出すことに成功した。

しかし、しばらく歩いたところで、同じように面倒ごとから早々に撤退してきた三年生に、自転車でさっそうと追いつかれた。

「…お前ら、なにしてんの?」

…至極まっとうな感想に返す言葉もない。私だって意図を聞きたい、この自転車の反対側を持つ男に。

「なにって、自転車と一年を送り届けてるんです。」

そう真顔で返すあおいさんの目が座っている。どっからどうみても酔っ払い。どちらかというと送っているのは私のほうですよ?納得いかないように私のほうに目をやる三年生。これは助けを期待してもいいのだろうか。

(酔っ払いの送迎です)
そう目配せすると、合点したようにうなずいた。

「優愛がいるなら大丈夫か、まあなんかあったら連絡して」

言い残し去っていく三年生を見送り、助けてはくれないんか、一年生だぞなんて、突っ込みを入れることができるわけもなくて。結局二人で帰路に就く。

九月の、まだ若干熱の残った生ぬるい風が、私たちの間を通り過ぎていった。それは、かかわりがないというには絡みがありすぎ、仲が良いというには生意気すぎる、私たちの間の温度感のようで少し切なくなった。

自転車を転がす間、結構いろいろな話をしたと思う。先輩が家で白米しか食べていないとか、お弁当屋でバイトしているとか、わたしが実家暮らしながらもお弁当を毎日作っているとか、そんなどうでもいい話。冷静に考えると食べ物の話ばかりしていた。でも、さすがに先輩の食生活が悪すぎて心配になり、今度つくりに行きましょうかーなんてからかったりしていたので、どんどん話が長くなってしまったのだ。

でも、そんなことはどうでもいいぐらいたくさん話したのは、あおいさんの推しの話だった。知名度の低めのアイドル。そのグループに通い詰めているらしく、その話になった時のテンションといったらなかった。

「今度シングルのリリースイベントがあってそれに行ってくるんだ」

そう話す彼は、大好きなおもちゃを目の前にした子供みたいな目をしていた。この人は、こんな顔もできたんだ。純粋に驚くとともに、かわいい、そう思ってしまった私は、きっともう手遅れだった。

ほしい。この人のこの笑顔が私に向けられる未来を、望む自分に気が付いてしまった。

「連れて行ってくださいよ、そこまで言われるとさすがに興味わきます。」

とっさに口をついて出た言葉は、この人と一緒にいる時間を作るための口実。

「いいよ、いこう、布教するわ」

目を輝かせる彼に、多少の罪悪感がちくちくと胸を刺すけど、もう踏みとどまるわけにはいかなかった。

「帰ったら見てみますから、おすすめ曲送ってください」

これだってもちろん、連絡させるための口実だ。重ね重ね申し訳ないとは思う。でも、私にとってこのアイドルは、超えなきゃいけない壁でもあるのだ。先輩の目を、少しでもこっちに向けさせなければ勝機はない。

私のライバルはアイドルか。普通の顔、普通の性格、なんならみんなのお母さんキャラ。流石に無謀な挑戦だと分かってはいるけど、これが恋の力、無謀さというやつなんだろう。酔った勢いもあり、比較的上機嫌に推しのことを話す彼に、笑顔で相槌をうちながら、心では苦笑した。なんだって利用してみせる。この人を、私の戦う土俵に連れてくるために。


そう、思っていた時期が私にもありました。ライバル宣言を早々に取り消さなくてはならない。なぜならハマってしまったから、私が。分かりやすく言おう、アイドルに沼った。それはもうずぶずぶだ。おすすめしてもらった曲、聴いてみたところ、なかなかいいなと思ってしまい、二曲目三曲目、さらにはおすすめ動画、そして見つけてしまった死ぬほど好みのメンバー。何この子守りたい愛おしい尊い。勝てるわけねぇだろこんな天使に勝たねぇといけないのかその天使に!?

吹き狂う嵐のように私の感情は荒れていた。もういい、開き乗って恋も推し活も頑張ってやるしかないだろう。大学に入るまで、推しも好きもよくわかっていなかった奴の言葉とは思えない。ミイラ取りがミイラになるどころの騒ぎでは無い。それもこれも、先輩のあの表情に出会ってしまったのが運の尽きだとあきらめよう。

意気込んだのはいいものの、私のバイトの都合や、イベント日程との兼ね合いもあり、私が先輩とともに推しに会いに行くのは十月になった。

生まれてしまった一か月の猶予。その間にまあある程度自分磨きをして、次あった時にはちょっとくらい女子として意識してもらおうなんて考えて、けなげにも夜な夜なストレッチを繰り返していた。

その日もいつも通り、お風呂上りに柔軟をしながら推しの曲を聴いていると、けたたましくスマホの通知音が鳴りひびいた。推しの邪魔すんじゃねえ誰だ、心で毒づきつつ、音楽を奏で続けるスマホを拾い上げ、思わず変な声が出そうになった。

「そういえば、いつご飯作りに来る?」

味もそっけもないラインと、それとはギャップのありすぎるとんでもない内容。まさか、思ったより記憶の残るタイプの酔っ払いなのか。あの日の会話が脳裏にちらつく。というか、あれ冗談だと思わなかったのか。

「え、ほんとに行っていいんですか」

「俺は特しかないから。優愛の気が向くならいつでも」

なるほど、たしかにご飯を作ってもらえるという状況は、一人暮らしで食生活壊滅の向こうからしたらラッキーなわけで、その状況の違和感に関してはあんまり深く考えてはいないのだろう。

後輩の女の子を家に呼び出すって、それ、変な目的に勘違いされてもしょうがないんですよ?もう少し仲良くなれたら宣言してやろうと思う。でもとにかく、いいだろうやってやる。おいしいご飯でまずは胃袋をつかむところから始めるんだ。

特段料理上手というわけではないが、大学に入学してから一応毎日自分のお弁当は作り続けているのだ。人にふるまえるぐらいの料理は作れるだろう、頑張れば。

「わたしも料理するのは好きなのでいいですよ、いつ行けばいいんですか」

「今週バイトないのは明後日だけだけど、もし空いてれば」

…急すぎないだろうか。練習する時間もありやしない。困ったことに明後日は私も暇をしている。スケジュール帳を開きながら頭を抱えてみるけど、内心うれしさでいっぱいだった。

「私も大丈夫です。食べたいものとかありますか?」

「なんか好きなの作ってくれればいいよ」

頼んできた割に雑な人だなあと、あきれつつも口の端が持ち上がってしまうのは許してほしい。一か月後までは頑張ろうと思っていたところに、降ってわいた二人きりの時間だ。向こうに何の意図もなさそうなのだけが癪だけど、それも全部ひっくりかえせるぐらいのご機嫌だった。

さて、何を作るのがいいだろうか。なんとなく、あおいさんには和食が似合いそうな気がする。でも肉じゃがとか言い出すと狙いすぎな気もして、あれこれと考えを巡らせる。じゃがいも、人参、玉ねぎ、大根…そうだ、豚バラ大根なんかいいんじゃないか。というか私が食べたい。お弁当にも入れられるしいいレパートリーが増えそうじゃないか。

自分の機嫌がだいぶ良くなっていることを自覚しつつ、早く眠ることにした。翌朝、ある友達に電話をかけるという予定がたった今決まったから。


翌朝、たっぷりの睡眠のかいあってすっきりと目覚めた私は、予定遂行のためにスマホを手に取った。そのまま見飽きた名前に電話を掛ける。しばらくのコール音のあと、ようやく聞きなれた声が聞こえてきた。

「おはよ…てかこんな朝っぱらからなんだよ、なんか予定でもあったっけか」

「おはぁ、急にごめんなんだけど、私と料理しない?」

「料理…、料理?楽しそう。って違う、別にいいけど、お前はまず過程を説明しろよ、いつも唐突なんだよ」

寝起きなのだろう、若干ぼけていそうな頭と声。そんななかでも私の幼馴染は、あきれ声を返してきた。

「過程っていわれてもなあ。まあわかりやすくいうと、先輩を振り向かせる料理作りに協力してください、シェフの卵!ってこと」

そう、私が電話を掛けたのは幼馴染の木村巧。調理師専門学校に通うこいつの手助けがあれば、なんとかなるだろうという魂胆なわけだ。

「振り向かせるって、えっ、好きなやつでもできたの?」

どことなくさっきと変わった声色に、そこまで驚くことだろうかと首をひねる。まあいままで恋愛っ気が全くなかったのを一番知っているのは巧だから、仕方がないのかもしれない。

「そうですぅ、ってか喜んでよ、恋愛なんてたいしてしてこなかった心配な幼馴染にやっと好きな人ができたんだから」

私の話していることは至極理不尽だ。朝っぱらから電話を掛けた挙句、一方的にお願いをしているのだから。よくこんなに適当なやつのお願いを、いつもなんだかんだ聞いてくれるものだ。私だったら適当にあしらってしまう気がする。

「そうかよ、まあよかったんじゃないの、てかほかに頼む奴いないのかよ」

でもその日はなんだか様子が違くて、いつもみたいにすんなり受け入れてはくれなかった。さすがに甘えすぎたか。でもこちらも引けるわけもないし、巧以上に適任の人なんているとは思えない。

「いやもちろんいるけど、巧の料理がおいしいじゃん。」

結果的に、おだてるのが丸いという結論に至った。

「しょうがないから教えてやる」

作戦成功。まんざらでもない声色が返ってきた。ちょっとほめるとこれだ。だから憎めない。

「ちょっと今から買い物して行くわ。あやちゃんにもよろしく言っといて。」

「お前は俺の母親と無駄に仲いいの何なんだよ、そんで今からくんのかよ…片付けするからゆっくり買い物してこい」

家族ぐるみの付き合いもある巧とは、実質家族みたいなものだ。だからこれだけ適当も言えるし、お互い雑に扱っても揺るがない信頼がある。久しぶりにあやちゃん、つまり巧のお母さんに会えるのも楽しみだ。さらに上機嫌になりつつ買い物をすませ、のんびりと巧の家に向かう。チャイムをならすと、出てきたのはあやちゃんだった。

「いらっしゃい、ひさしぶりじゃない!最近会えなくて寂しかったのよ」

「ひさしぶりあやちゃん、ごめんね、大学入ってバタバタしちゃってさ。」

久々の再会なのに、気さくに受け入れてくれることが本当にありがたい。0歳のころからの付き合いは健在というわけだ。

「おー、来たな、そんでゆあ、何作るつもりなの」

「豚バラ大根、それに合う副菜、あとサラダ。」

「うちの今日の昼食が完成するラインナップだな、まあいいや、こっち」

上から目線の巧にも今日は腹が立たない。こいつの料理の腕前を知っているからだろう。本当においしいし、センスがある。こういう人が料理人になれるんだろうな。

「材料、まあ足りなくなったらうちにもあるから、とりあえずメインから作るか。大体の作り方はわかるんだろ?変なことしてたら止めるからとりあえずやってみな」

「はーい」

巧先生のお料理教室は、普通に楽しかった。味付けのアドバイスとか、手際のいい作り方とか、ためになることばかり。もともとといえば、こういう作業は好きなほうなのだ。ただ、自分のためだけに作るとなると悲しくなるからやらなくなっただけ。

今日作るご飯はおそらくこのまま、あやちゃんと巧のおなかに収まることになる。だからそう考えるとやる気も出てくるし、そもそもあおいさんに作るという大きな目標もある。ふふ、今からあおいさんの驚く顔が目に浮かんでわくわくする。そう、ぼんやりしていたのが間違いだった。

「…い、おいっ、ゆああぶねえ!」

巧の声にはっと我に返ると、お味噌汁を作るのに沸かしていたお湯が吹きこぼれ、ちょうど私の手にかかろうとしたところだった。普通の人ならとっさに手を引っ込められたのだろうが、何を隠そう、運動神経、反射神経の壊滅的な私にそんなことはできなかった。

「っつい!」

「ばっかお前何してんだ。いつもいつもぼけっとしてるけど、火を扱ってるときににぼんやりすんな」

「なんてひどい、もっと優しい言葉をかけて」

「お前はしっかりしてるようで全然そんなことないことはよくわかってんだ。ほら、手見せろ。今よけられてなかったろ。」

そういって私の手を取り、思ったよりひどいな、とぶつぶついいつつ、手を冷やしてくれる。その姿はまるで子供の世話を焼くパパのようで、思わず笑いがこぼれた。

「なに火傷して笑ってんだ、気持ちわるいな」

「いや、なんかいいパパになりそうだなって」

「そうかよ」

なんだか複雑そうな顔をする巧に首をひねる。はて、ほめたつもりだったのだが何か不服だったのだろうか。そんなひと悶着を経て、ようやっと完成した、先輩に充てた料理もとい今日のご飯。まあなかなかよくできたと思う。あやちゃんを呼び出し、一緒に昼食にするとこにした。

「おいしい!ゆあちゃん、やっぱりうちの子になってよ。」

「おい、変なこと言うなよ」

「あやちゃんの娘になるのは大歓迎なんだけどね、ちょっと巧がそこまで私の面倒見たくないでしょ、いまさら 」

ひらひらと手を振り、巧もうなずいていると思い、半笑いで横を見やり、そのまま私は固まることになった。一瞬、ほんの一瞬だったが、なにかあきらめたような、悲しいような、哀愁あふれる表情。そのあまりの儚さは、瞬きをする間に嘘のように消え去っていて、見間違いを疑った。

でも、それはどう考えても見間違えなんかじゃなくて。だからこそ、何も言えなかった。それと同時に、すこしだけ、ほんの少しだけ浮かんでしまった考え。気のせいだと消し去るには、私は巧のことを知りすぎていた。思い過ごしなんかじゃない。ずっと隣にいたのだ。逆になぜ今まで気づかなかったのだろう。こいつは、私のことが、だけど…

「ごめんね…」

「ん、なんかいった?」

「え、なんも、耳悪くなったんじゃないの、老化」

「同い年だろうが」

こぼれてしまったごめんは、言わないことにした。巧がいつからか、私に隠してきたであろう気持ちは、きっと私たちの関係をこのまま居心地のよいものにしておくためだから。私のことを気遣ってだと思うから。そのやさしさに、今は甘えることにしようと思う。

最低かもしれない。けど、私にも今は、私なりに大好きだと思える人が見つかったから。きっと、それが巧にも、蒼唯さんにも誠実な対応だ。だから、少しだけ傷んだ胸を見て見ぬふりして、私は帰路についた。

そう、私には悩む時間なんて残されていなかった。明日には蒼唯さんのところに向かわなければならない。自分のことにいっぱいいっぱいな私に、心底嫌気がさした。
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