オディールが死んだ日に
序幕
蝉の声がシャワーのように降り注ぐ。
もう本格的な夏も間近だ。
そう頭の中でぼんやりと思っていた。
だが、だんだんと覚醒してきた脳でそれは蝉の音でもシャワーでもなく、梅雨時期真っ只中の雨の音に過ぎなかった。
そしてそれに混ざるまるで幾重にも重なる衣のようなヴァイオリンの音、そして重厚感を伝えてくるドラの音が時折聞こえてくる。
これは何て言う曲なのだろうか。
クラシック音楽と言うことだけは分かる。
俺の趣味ではないから妻が選んだ曲なのだろうが。
それにしても、久しぶりにベッドを共にした直後だと言うのにこの曲はいかがなものか。
俺は自身の額や背中に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、ベッドの脇でスーツケースに着替えを詰め込むことに勤しんでいる妻を見て目を細めた。俺が横たわっているすぐ隣、妻の場所はぬくもりすら残していなかった。しかし久しく共にしていなかったベッドの中、今日は一段と激しく燃え上がったのは事実だ。
唇に妻の口紅の味をしっかりと感じる。
「今度はどこ?イタリア?フランス?」俺が問いかけると
「フランス、パリよ。一週間ぐらいで帰れると思うわ」
ネイビー色のガウンだけを羽織った妻が振り返り、淡々と言ってのけた。まるで業務報告のように。まぁ業務報告もあながち外れてはいない。
「一週間か、長いな……」
「いつものことじゃない。家のことは家政婦の吉崎さんにお願いしてあるから」
妻は一言だけ返し、またも着替えをスーツケースに詰め込む。薄いシルバーに見知ったロゴが全面に入ったブランドのスーツケースは妻が”仕事”で遠征するときに利用しているものだ。
会話をすることを諦めて、俺も起き上がると裸の体の上に妻と揃いのガウンを羽織った。
「一週間か、俺を独りに?」妻の背後から彼女の肩を少し強めに抱きしめると、彼女はちょっと困った顔を浮かべて
「まぁ、まるで大きな子供のようね。いつもはそんな駄々をこねないのに」
駄々……まぁあながち外れていないな。妻とたった一週間離れることぐらい慣れている。今更、だ。しかしこの日はやたらと妻が恋しかった。
いつから―――俺たちはこうやって話をしなくなったのか。
いつから、と言う質問は御幣があるな。俺たちは結婚する前からも結婚した後も最初から会話が少なかった。
別に仮面夫婦と言うわけではない。
妻は誰に対しても、こうなのだ。
口数が少ない、と言えばそれだけの話だがそうとも違う。友人知人たちは物静かでしとやかで品がある美人な妻を羨ましがったが。彼女は喋ることを意図して封印している気がする。それでもやや冷えた夫婦関係に見えても、俺は妻を心底愛していた。
だからか
「ねぇ匠美」
と突如声を掛けられて少しばかり驚いた。
「何?」と言う意味で目を上げると、いつの間にか俺の隣に腕をついていた妻が俺を覗き込むようにしていて、
「仕事が終わったら話したい事があるの」
と、至極真剣な表情を作っていた。