オディールが死んだ日に
「ねぇ、誰も居ないわよね」彼女は薄暗がりが支配する広場をきょろきょろと目配せ。何だかイケない誘いの気がして俺の心はほんの少し跳ねた。思った以上に簡単に手に入るかもしれない、とばかり思っていたが。
彼女は黒の上品な装飾がされたヒールの高いパンプスを脱ぎ、またもスカートの裾をほんの少したくし上げ、あろうことか水しぶきの上がる噴水の背の低い壁をまたいだ。
俺は口出ししなかった。何をするつもりなのか見守っていると、彼女は両手をゆっくりと宙に向け、右足を軸に左足を180度以上持ち上げ、ポーズを取った。その後、その軸足を軸に、二回、三回と回転する。後に知ったがそれはフェッテと言う技で、回転しながら、鞭を打つように足を曲げ伸ばしする動きのことを言う。そのときの俺は技こそ知らなかったがその動きは
「バレリーナ?」
「そ、さっきのパーティーはスポンサーがたくさん集まる場所だったから強制参加させられたの」
俺は目を細めた。足元からくるぶしまで浸った水の中で舞う彼女は、次々とその技を披露し、まるで美しい妖精が舞っているかのごとく踊っていた。裸足のつま先から水しぶきが舞う。跳ねた水の滴りがドレスの裾をキラキラとまるで宝石のように輝かせる。長くしなやかな腕は大きく広く、かつ繊細に上下し、降りかかる水を掬っては跳ねさせる。
とても幻想的だった。バレエは趣味じゃない、だから一度として本物の舞台なんて見たことないけれど、きっとどの舞台よりも美しい―――
一通り踊った彼女は「はぁ」と可憐な吐息を付き、噴水に足を浸らせたまま俺をまっすぐに見据えてきた。思えば今初めて目が合った気がする。その目はとても印象的で化粧けはあまりなかったが素で美しい目元だった。それは彼女の瞳の奥までの美しさを物語っていた。俺の手は自然に拍手をしていた。
「ありがとう、付き合ってくれて」彼女は言い、俺は彼女に手を貸すつもりで手を差し伸べたが、しかし噴水から出てこようとしない。「この地に足がついてる感じがいいの。水が冷たくて心地いい」
そういうものなのか。
後で知った。バレエダンサーは殆ど舞台でトウ(つま先で立つ技法)で舞うから、あまり足をべったりと地面につけないと言う。
「生きてる、って感じがするわ」
生きてる―――
そうだ、俺もこのとき初めて”生”をこれ以上にない程実感した。まるで翆と言う神によって俺と言う人形に息を吹き込まれたように。