ジングルベルは、もう鳴らない

第57話 左手と右手

「え? え?」


 樹里はしゃがみ込んだまま、斎藤さんが好きなんです、ともう一度呟いた。ブンタのパタパタと揺れる尻尾が視界に入る。それがほんのりと、樹里と現実を繋いでいる気がした。頭の中、心の中は、理解が追い付いていない。あんなに戦ってきたヒロミが、幻だったなんて。自分に呆れ、良かったと安堵し、抑え込まれていた感情が垂れ流される。何の抑制もなく、自然に。


「ん、え? 何があった?」


 樹里の中に何が起こったのかなど、斎藤に分かるわけがない。何度もこう繰り返し、ソワソワと落ち着きのない影が揺れる。それを見ながら、樹里は懸命に頭の中を整頓していた。今まで一年近く勝手に戦ってきた相手は、幻。姿は姪っ子で、その名は中野宏海という幼馴染の男性のもの。あぁ何と馬鹿らしいことか。目の前がパッと晴れ、障害が何もなくなった。


「私、斎藤さんが好きです」
「あ、えっと……」
「あぁ……そうですよね。ホント急に何だって話ですよね。ごめんなさい」


 ようやく、樹里は立ち上がる。ふぅ、と伸びをしてスッキリした顔を見せた。ヒロミが関係なくとも、フラれてしまえばもう終わり。これ以上関係が進むことはない。引っ越しも本腰を入れられるだろう。


「あ、えっと……そうじゃなくて」


 斎藤が慌てたように、胸の前で掌をパタパタ動かす。樹里はもう、引っ越しをしようとばかり考えている。彼の言葉は、まだ聞いていないというのに。
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