ジングルベルは、もう鳴らない
 二人の間に沈黙が訪れる。樹里は相手の言葉の意味を飲み込もうと、必死に心を落ち着けた。長く、短い間を置いて、二人はゆっくりと目を合わせる。首を傾げた斎藤が、ということは? と問うた。ゴクンと生唾を飲み込んでから、樹里は一度だけ、静かに頷いた。


「えぇと、それって……」
「よ、よろしく……お願いします」
「本当に?」


 今度は斎藤が目を丸くする。ウンウンと樹里が頷くのを確認すると、やった、と彼は笑った。無邪気な少年のように。樹里には、喜びに浸れる余裕が全くない。自分勝手な勘違いで拗らせていた時間が、まだここに追いついてこないのだ。よろしくお願いします、と頭を下げた彼に、樹里も釣られてそうする。戸惑いと興奮が、同時にパレードをしているような気分だった。緊張漂う空気の間で、ブンタが嬉しそうにワンと吠える。二人はゆっくりと、その方向へ視線をやった。嬉しそうに尻尾を振るブンタ。ようやく二人に、フフフッと柔らかい笑い声が零れた。


「あ、そうだ。二人で引っ越すのも手じゃない?」
「え、えぇ? あ、いや、えっと」
「冗談です」


 斎藤がケラケラと笑って、涙目を擦る。ゆっくり行こうね、と微笑み直した彼は、スッと左手を差し出した。おどおどしながら、ジッとそれを見た樹里。斎藤はその手で、樹里の右手を握った。少し汗ばんだ手を握り返す。そこに彼の緊張がある気がした。あぁもう思い悩まなくていいんだ。右手が感じる温かさに、少しずつ安堵が広がる。もう一度キュッと握ると、彼も握り返してくれた。それを見つめて、樹里は静かに微笑んだ。だいぶ遠回りをしたけれど、実った恋。無駄な時間だったかも知れないが、それもこの恋の一部だ。

 二人と一匹は並んで帰路につく。来た時とは違った、心の温かさを抱えて。「帰ったら、ご飯一緒に食べようか」と斎藤が微笑む。樹里は目を合わせて、はい、とはにかんだ。
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