ジングルベルは、もう鳴らない
「え? あっ。僕の部屋、ここなんです」


 そう言ったのは、さっきまで一緒にいた彼。抱きかかえられたブンタは、尻尾をプンプン振っている。驚いた顔で彼が指差す先は、樹里の隣の部屋――一〇二号室。フッと小さく声を漏らして、「私、その隣です」と樹里は一〇一号室を指差した。


「まさか、お隣だったとは知らずに。ブンタ、煩くないですか」
「大丈夫です。大丈夫です。ワンちゃんの声聞こえても、まさかお隣からだとは思ったことがなかったくらいです」
「そうでしたか。良かった」


 樹里は、夜しか家にいないようなものだ。きっとブンタが鳴くような時間に、家にいなかっただけなのだろう。休日に聞こえてくることはあったが、あまり気にしたことはない。公園の近くのマンション。散歩で歩いている犬は沢山いるからだ。 


「あ、改めまして。僕、斎藤《サイトウ》といいます」
「松村です」


 玄関扉の前で、深々と頭を下げ合う二人。不思議そうにこちらを見るブンタの鼻息が、フンフンとだけ聞こえる静かな空間。それが可笑しくて笑ったら、彼も同じように吹き出した。よろしくお願いします、と言いながらも、まだ互いに笑いの余韻から離れなれない。それから視線がもう一度合わされば、もう止まらなくなって、二人共しばらく笑っていた。

 これは運命だなんて、決して思ってはいない。こんな年になってまで、そんな夢物語など見るわけがない。ただちょっと、知り合いが増えた喜びがあるだけ。感覚が合うかもしれない人に知り合えた喜び。樹里は何だか、自分に言い訳をしている。
< 79 / 196 >

この作品をシェア

pagetop