ジングルベルは、もう鳴らない
「あ、あの。今、一度お部屋に伺ってもいいですか。急に私が行ったら、きっとブンタがびっくりしちゃうから」
「そ、そうですよね。あ、じゃあ……お願いします」


 そう言ってようやく、斎藤にも緊張が見えた。樹里の部屋の鍵を閉め、二人で隣の扉に入る。ふわっと香るバニラの甘い匂い。それから、シナモンの香り。樹里の部屋にはない、飛び出し防止用の柵。反転した同じ間取りなのに、何だか新鮮だ。イメージ通り、綺麗に片付けられた部屋。樹里を見つけたブンタは、元気に尻尾を振って寄って来る。


「これがフードで、それからこれがシーツ。えぇと、水のボウルがこれで」


 斎藤は、一つ一つ説明するが、やはり焦っているようだ。母親が心配なのだろう。樹里はメモを見ながら、場所を確認する。それからブンタの頭にそっと手を乗せて、いい子にお留守番してようね、と微笑み掛けた。


「大丈夫だと思います。それで……あの。斎藤さんの連絡先を伺ってもいいですか」
「あっ、あ。そうですよね。自分の連絡先のこと忘れてました。えぇと、これをこうして」


 焦りの見える手つきで、彼はQRコードを表示した。連絡先を交換する二人は、妙にどぎまぎしている。これは緊急事態なんだ、と樹里は何度思ったろう。そう思わなければ、この緊張を胸の高鳴りと勘違いしてしまいそうだった。
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