いたちごっこ
「ま、とにかく。悩むのは対決の内容を聞いてからにしろ。双葉の祖父さんのことだから明日にでも詳しい話をしてくるだろうし」
「うん……」
「きっと新しいレシピを考えてこいとか、そんな感じだと思うわ。新作を出したいって悩んでたし」
そう言って皐月は「どんなお菓子にするかな〜」と、嬉々とした様子でリビングの戸棚から仕事用のノートを取り出した。
毎日、帰宅する度にその日、学んだことを書き記しているノートだ。レシピとかをメモしてある。いったい何度開いたのか使い古してクタクタ。戸棚には他にも似たようなノートがずらりと沢山並んである。ざっと見ても八年分。
もしかしたら、もっとかも。うちのお店に来る前から、お父さんとかお祖父ちゃんにコツを教えて貰って書いてた気がするし。そんな風になるまで熱心に取り組んできたモノを否定されたのに、どうしてそんなに前向きでいれるのかわからない。
近づいたって傍に寄ったって、いつもみたいに憎まれ口を叩かれることもなければ、去ろうともしないし。隣に座っても「お前はどんなお菓子が食べたい?」って楽しそうに聞くだけ。いつもなら『邪魔』って怒るのに。怖いくらいに優しい。
そんなに私の言葉が響いたんだろうか。皐月だから結婚した、って……それが。
それとも普段がおかしすぎたのかな。これが本来の正しい夫婦の姿だったり?その辺よくわからないけど、急速に距離が縮まってるのは確かだ。いつもは家にいたって人一人分はスペースが空いてたのに、今は肩が触れ合う近さ。物理的にも精神的にも近づいてる。
知らないでしょう。ただ肩が触れてるだけなのに意識しまくってることなんて。気づかれたらどうしよう……と不安になるくらい、心臓がドキドキしてる。
この歳になって何を今さら。子供だって欲しいと思ってるのに、これじゃ先が思いやられる。
そうは思っても思考ってやつは厄介なもので、勝手に心の声が溢れて止まらない。まさか、たったこれだけのことで自分がこんな風になるなんて、結婚する前は夢にも思ってなかった。何なら結婚した後でさえもだ。全然、余裕だと思ってたのに。最近の私はおかしい。
「聞いてんのか?」
「あぁ……、うん」
「どんなお菓子がいいんだよ」
「んー、甘くてサッパリしたやつ?」
「なるほど。甘くてサッパリしたやつな」
咄嗟に好みの味を答えた私の言葉を参考にするように、皐月は開いたノートに案をメモしていく。
その間も心臓は慌ただしく音を立てたまま。皐月は全く意識していないって感じなのに、一人でドギマギしちゃってバカみたい。
その後、お風呂から出ても寝る前になっても皐月はずっとそんな感じでご機嫌だった。この間ふざけて手を繋いで帰ったときと同じくらい。今日の私たちは距離が近かった。
「……寝るの?」
「あぁ」
しかし、それでも手の一つすら出さずに寝室へ行ってしまうんだから、やっぱり皐月にとって私は夫婦というか相棒って感じなのかも知れない。
念のために塗ったリップは今日も一切乱れることがないまま。
あぁ、その気って結構大事だ。お互いがその気にならなきゃ恋愛って成り立たないから。私だけ必死に頑張ってたって意味がない。相手が振り向いてくれてこそ初めて前に進めるのだ……と、一人寂しく布団に潜りながら思った。