こんな雨の中で、立ち止まったまま君は

 終電で帰る圭吾と奈巳を駅で見送り、

 程よく酔った体を風に当てながらアパートまでの道を歩いた。


 まだ夜風はいくらか冷たく感じるけれど、

 こうして薄手の長袖シャツで歩けるくらい、冬のなごりも遠のいていた。


 季節はまた、春を迎える。



「どこかで見てるよ、か……」


 奈巳の言葉を呟いた。

 見てくれているだろうか。

 気づいてくれただろうか。 


 これは、あなたへ書いた物語だ。


 なにもかもが中途半端だった俺の手を、足を、心を、動かしてくれたのはあなただった。


 もしも……、自分の書いた本が世の中に出れば、彼女の目に触れることがあるかもしれない。

 もしかしたら書店で。誰かの部屋で。雑誌の片隅で。

 越した先のどこかの街で再び司書をしていたならば、新刊チェックのその業務で。



 それは願いに似た、頼りないものだった。

 届け先の無い場所に、宛名だけを書いた手紙を出す行為と同じだった。


 けれど、俺に出来ることはそれだけだった。

 それしかもう、残っていなかったのだ。

 精いっぱいの、彼女へのメッセージだった。

 


< 265 / 280 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop