こんな雨の中で、立ち止まったまま君は
終電で帰る圭吾と奈巳を駅で見送り、
程よく酔った体を風に当てながらアパートまでの道を歩いた。
まだ夜風はいくらか冷たく感じるけれど、
こうして薄手の長袖シャツで歩けるくらい、冬のなごりも遠のいていた。
季節はまた、春を迎える。
「どこかで見てるよ、か……」
奈巳の言葉を呟いた。
見てくれているだろうか。
気づいてくれただろうか。
これは、あなたへ書いた物語だ。
なにもかもが中途半端だった俺の手を、足を、心を、動かしてくれたのはあなただった。
もしも……、自分の書いた本が世の中に出れば、彼女の目に触れることがあるかもしれない。
もしかしたら書店で。誰かの部屋で。雑誌の片隅で。
越した先のどこかの街で再び司書をしていたならば、新刊チェックのその業務で。
それは願いに似た、頼りないものだった。
届け先の無い場所に、宛名だけを書いた手紙を出す行為と同じだった。
けれど、俺に出来ることはそれだけだった。
それしかもう、残っていなかったのだ。
精いっぱいの、彼女へのメッセージだった。