こんな雨の中で、立ち止まったまま君は

 どこか遠くのほうから、風にのって雨の匂いが届いたような気がした。

 
「あの…」


 切り出した言葉に、小川さんの顔が持ち上がる。

「はい?」と横を向いた彼女の顔に、俺は疑問を口にした。


「あの歩道橋に……いつも居ますよね」

「え?」

「その…倒れていたあの歩道橋の上に…」


 小川さんは首をかしげている。


「……雨の日に、いつも」


 もしかしたら、聞かないほうが良かったのだろうか。

 彼女の顔に、街灯がつくる濃淡とは別の色の影が差して、俺は瞬間的に戸惑った。


 たぶん、余計なことだった。

 人は誰だって、知られたくないことの一つや二つ持っている。

 親しい友人にさえ、家族にだって、話せないことを。


 彼女があそこに現れるのは、決まって一人きりでだ。

 雨の日に。雨の日だけに。

 彼女はあえてそうしているのに。



 彼女だけの理由。

 見られたくないもの、知らせたくないもの。


 たまたま気づいてしまった俺は、

 そしてそれを口に出してしまった俺は、

 彼女の痛い部分に踏み込んでしまったのではないか。


 彼女の傷口に、わざわざ触れて痛みを射すように。


 彼女は首を傾けたまま、遠くのビルの明かりを見つめている。

 その口が開くまでの時間、俺はひどく後悔した。


 すみません、そう言おうとして口を開きかけたとき、


「そうですね…居るかもしれません」


 独り言のように彼女が呟いた。




< 76 / 280 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop