こんな雨の中で、立ち止まったまま君は
遠くから運ばれてくる雨の匂いは気のせいでは無いようだ。
駅に近づくにつれてアスファルトの濃い匂いが増している。
小川さんが見つめていたビルの明かりはぼんやりと滲み始めていて、
ビルのもっと向こうに伸びるサーチライトの光はくっきりと浮かび上がり、
空を旋回している様子もはっきりと見て取れた。
「私もね、どうしてあそこに立っているのか、分からなくなるときがあるんです」
沈黙を、ささやくような小川さんの声が破った。
言葉の意味を呑みこめなかった俺は並んで歩く彼女のつま先ばかりを見ているしかなく、
その後に小川さんが続けるかもしれない声に、黙って耳を凝らしていた。
住宅の明かりが途中で途切れると、
緩い坂道から駅へ伸びる道の上はわずかな街灯のみになる。
人通りもない。
急に寂しくなった上り坂の途中で
「でも、どうして知ってるんですか、私があそこにいること…」
彼女の次の言葉が続いた。
ため息にも似た、空気に溶けてしまいそうな細い声。
やはり聞くべきではなかった。
つかの間口をつぐんだ俺だったけれど、
それでもこちらをじっと見上げている小川さんの視線を感じていた。
彼女のほうを見ないまま、
俺は自分で振ってしまった話題に後悔しながら口を開いた。
「あの歩道橋の見えるコンビニでバイトしてるんです。雑誌とか外のゴミ箱とか片付けてるとよく見えて。
あの日、あなたが倒れているのがわかったのも、そのせいなんです。
あなたに気づいたのは…一年前くらいだったと思います。それが雨の日ばかりだってことに気づいたのは、少し経ってからですけど」
そこまで言ってから、
「どうして、」
その後の言葉はきっと、
俺がこの日彼女にかけたもので一番残酷なものだったに違いない。
けれど俺は、
そのときはまだ何も知らなかったのだ。
彼女の過去を、
彼女を、
その先を。