こんな雨の中で、立ち止まったまま君は
俺は彼女へ顔を向けた。
「どうしてわざわざ雨の日を選んで…あんな寒いところで…立たなくちゃならないんですか」
彼女は黙って俺を見上げていた。
ほんの数秒間、俺達はそのまま歩みを進めていた。
先にゆっくりと視線をそらしたのは小川さんのほうだった。
坂道を上りきるころ、いよいよ雨の匂いは強まった。
ぽつりと頬に落ちてきた雨粒を合図に、
速度の緩い雨が次々と空から落ちてきて、アスファルトの上に点々と跡をつける。
雨は小川さんのまつげにも着地して、涙のように淡く光っていた。
「雨…」
手のひらを受け皿のように空中に置いた彼女はしばらくそのまま歩いていたけれど、
やがてその手で、持っていた傘を広げた。
白い傘は、暗闇に咲いた花のようだ。
蒼い雨粒を散りばめた、儚くて頼りない、彼女にそっくりな花。
「一緒に入りましょう」
小川さんが差し出した傘が、俺の上に広がる。
その瞬間、自分の心臓が音を立てるのがわかった。
さっきまで傘の居たスペースは、こぶし一つが入るか入らないかの距離に縮まっている。
雨の匂いに混じって、小川さんの香りが極近くに寄り添った。
傘を持つ小川さんの左手首の腕時計が揺れている。
まるで中学生のように、俺はその時計を眺めながら身を固くしていた。
白い傘の下に閉じ込められた俺と小川さんは、黙ったまま坂を下った。
時々、彼女の肩が腕に触れる。
その度に俺は緊張した。
横目に映る彼女の頭は、俺の鼻先くらいの高さにある。
図書館に居るときよりも低いような感じがしてそっと足元を見やると、彼女の靴のかかとにはヒールがついていなかった。
そのせいか、足音も聞こえない。
スニーカーを履いた俺の足からも音は立たなかった。