離縁予定の捨てられ令嬢ですが、なぜか次期公爵様の溺愛が始まりました2
第一章 新婚旅行に行きましょう!
居間から弾むような声が聞こえ、フィオナは微笑んだ。
すっかり秋が深まり、気温が落ち着いてきたこの季節。それでも昼間は暖かく、このウォルフォード家のタウンハウスにもいっぱいの陽差しが差し込んでくる。ぽかぽかとした過ごしやすい陽気の中、フィオナは足どり軽く、明るい声の聞こえる居間へと向かっていた。
秋のはじめに、フィオナは二十歳になった。年相応に落ち着きたいところだが、口もとが緩んで仕方がない。
キャラメルのような甘い色をした髪が揺れる。フィオナは若草色の瞳をキラキラと輝かせながら、ここ最近見られるようになったこの家の変化に心を弾ませていた。
「――から、――――でしょ?」
「だからライナス――そういちいち――」
居間から聞こえてくる声はふたつ。
相手をからかうような若い声と、なにかを言い淀む深い声。言い争っているような雰囲気があるけれども、兄弟同士のじゃれ合いであることをフィオナはよく知っている。
(ふふ、セドリックさま、今日も楽しそう)
深い声の持ち主こそ、フィオナの夫であるセドリックだ。フィオナに対しては表情豊かだが、それ以外の相手には基本的にクールだ。普段もさほど口数は多くない。弟であるライナスにすっかり言い負かされている様子だが、そこに剣呑とした空気はない。むしろ、ふたりの打ち解けた空気感が伝わってきて、フィオナの表情は自然と綻んだ。
ティーセットを手にしたまま、フィオナはひょっこりと顔を出す。そこには向かい合わせのソファーに座り、雑談に興じている兄弟の姿があった。
「って、兄さん。まさかとは思うけど、もしかしてまだ義姉さんに――」
「っ、おい! 待て!」
フィオナの存在に気が付いたセドリックが慌てて会話を止める。フィオナに聞かせたくない話題だったのだろうか。さっと耳まで真っ赤に染めたセドリックを前に、フィオナはぱちぱちと瞬いた。
ソファーで寛ぐ兄弟は、顔の造形こそ似ているが、雰囲気がまるで違う。
フィオナと目が合うなり、気恥ずかしそうに目を逸らしたのがセドリックだ。フィオナの夫で、二十四歳。このウォルフォード家の次期公爵とされている。
彼は宵闇色の艶やかな髪に菫色の切れ長の瞳を持った美貌の男性だった。こうして顔を背けていても、その整った横顔につい見とれてしまう。
すっと通った鼻筋に薄い唇。一見冷たい印象の見た目のせいか、あるいは合理的な性格のせいか、彼のことを冷酷だと称する人も少なくはない。
けれども、こうしてフィオナやライナスと一緒の時は、普段のクールな印象もなりを潜める。どこか肩の力が抜けた様子で、あどけない表情を見せたり甘えたりしてくれるようになった。
ただ、今の彼は少しだけ気まずそうだ。
「…………聞いていたのか」
とても声が小さい。というか、尻すぼみである。
「お邪魔してしまったでしょうか」
ふたりの会話に交じりたくて急いでしまったけれど、もう少しばかり兄弟だけの時間があった方がよかったのかと思う。間が悪かったとフィオナが肩を落としていると、セドリックは慌てて首を横に振った。
「いや! そういうわけではなくて! 聞いていなければいいんだ」
「えっと、おふたりの楽しげな様子は伝わってきましたけれど、内容までは」
「そうか」
フィオナの返事に、セドリックはあからさまにホッとしている。ようやく表情を緩めて、その場から立ち上がり、フィオナを迎えてくれた。
「すまない。多少気恥ずかしかっただけだ。茶を用意してきてくれたのだな」
などと言いながら、当たり前のことのようにフィオナの手からティーセットを受け取る。それらをさっとローテーブルに置いてから、フィオナの腰を抱いて自分の隣に誘った。ソファーに腰かけてからも、彼はフィオナの腰を抱いたままだ。
「うーわ、兄さん。そこまででろ甘なのに。嘘でしょ」
「うるさい」
ライナスのからかう声を聞き、セドリックはぴしゃりと言い放つ。けれどもフィオナを絶対離さないあたり、彼は徹底している。ライナスの言う『でろ甘』という言葉を実感し、フィオナの頬も桃色に染まった。
「まったく、この新婚夫婦は。あー、ほんと普段寮生活にしてよかったよ!」
結婚してからあと数カ月で一年となる。本来ならば、そろそろ関係性が落ち着いてくる時期のはずだ。ただ、セドリックと本当の意味で心が通じ合ってからはまだ三カ月程度である。そのため、ふたりの間に漂う空気はいまだに初々しいものだった。
夫婦であるはずなのに、どこか付き合いはじめの恋人のようなままだ。そのせいか、使用人たちに温かい目で見守られているのはわかっている。
フィオナ付きの侍女であるロビンなどは『いつまで経っても初々しくていらっしゃって』と苦笑いするほどだ。おそらく他の夫婦とは異なり、とてもゆっくりとした歩みなのだろう。
正直、彼とはまだまだ関係性を築いている最中なのである。だから、いまだにこうして腰を抱かれているだけで心臓がバクバク暴れて落ち着かない。
「いちゃいちゃしすぎで見ていて恥ずかしいっていうか。兄さんのこんな姿を見せられる身内の気持ちにもなってよ」
なんて肩を竦めながらも、ライナスは楽しそうに笑っている。
ライナスはセドリックと同じく、深い夜色の髪に菫色の瞳を持った青年だ。印象的には少年から青年への過渡期とでも言おうか。十六歳という年齢よりも少し幼い印象がある。
とはいえ、一カ月前と比べてさらに成長したようだ。すでに身長もフィオナと同じか、やや高いのではないだろうか。もともとの顔立ちがセドリックよりも柔らかい印象で、どこか中性的なため、より若く見えるのかもしれない。ただ、確実に大人の男性へ成長しようとする兆しがある。
かつて、セドリックの魔力暴走の弊害で、その成長を阻害されていたライナスは、ここ数カ月で驚くほど体が大きくなった。フィオナの特別な刺繍の効果で、今までの分を取り戻すかのようにぐんぐんと身長が伸びたらしい。
あと数カ月もすれば年相応の体つきになるだろう。同じ年齢の子たちと遜色なくなった彼は、この秋から晴れて王立高等学校へと通っている。念願の騎士になるために、騎士コースに編入を果たしたのだ。
今は学校の寮に入って、毎日しっかりと学んでいるようだ。そして休みになるたびに、このタウンハウスに顔を出してくれていた。
もう何年も、この兄弟はまともに顔を合わせることすらできていなかった。その時間を取り戻すかのごとく、和気あいあいとじゃれ合っているのである。
とても喜ばしくて微笑ましい光景であるけれども、今日は少しだけ合流するのが早かったようだ。セドリックは気にするなと言ってくれたが、気にならないはずがない。
兄弟水入らずの邪魔をしてしまったのが申し訳ない。フィオナは気落ちするのを隠すために、いそいそとお茶をカップに注ぐことにした。
「兄さんってば、相変わらず義姉さんが淹(い)れたお茶しか口にしないの?」
「別にフィオナの茶だけというわけでは。――その、彼女の淹れてくれるものが特別うまいのは事実だが」
「あーハイハイ。ご馳走さまー」
自分から話題を振っておきながら、ライナスは半笑いになっている。そうしてフィオナからティーカップを受け取ると、くぴっとひと口飲んだ。
「もう、味がわからないってこともないんでしょ?」
「む。まあ――そう、だが」
ライナスの言葉に、セドリックは口を噤む。
かつて、セドリックがライナスの成長を阻害したことを悔いているように、ライナスはライナスで、セドリックが長年魔力を封印してきたことを気にかけているようだ。
セドリックは十年もの間、自身の魔力を封印する特別な指輪をはめ続けてきた。体内に渦巻く莫大な魔力を、二度と暴走させないようにするために。その副作用により、彼は味覚や触覚などの感覚が鈍くなる他、まともな睡眠も取れない体になっていたのだ。
もちろん、今は改善した。フィオナが持つ特殊な魔力によって症状ははっきりと緩和したし、そもそも封印の指輪も壊れてしまった。だから彼は、人間としての当たり前の感覚を取り戻していた。
もう魔力を封印するつもりもないらしく、セドリックの指には新しい指輪が輝いている。フィオナの瞳の色をした結婚指輪だ。フィオナのものにはセドリックの瞳と同じ菫色の石がはめられており、対になっているのだ。
いい思い出も、苦い思い出も両方が詰まっているからこそ、フィオナはこれらの指輪を宝物のように思っていた。
ただ、それらの思い出がどれほど大切になっても、セドリックが約十年間も食事も睡眠も楽しめないまま生きてきたという事実は変わらない。
ライナスが休みのたびにこのタウンハウスに顔を出すのは、セドリックが穏やかに暮らしているのか確認する意味もあるのだろう。――どちらかと言うと、長らく会えなかった親愛なる兄にちょっかいをかけに来ている要素の方が大きそうだが。
「それもこれも全部、義姉さんのおかげって? 兄さん、義姉さんに感謝しなきゃだね」
「お前に言われずとも」
セドリックは口を尖らせた。
普段は主である王太子に対しても一歩も退かないほど弁が立つ彼だが、弟の前では形なしだ。耳まで真っ赤にしつつも、反論できないでいる。
「義姉さんも、あれからどう? 勉強は進んでる?」
ふと話を振られて、フィオナは瞬いた。
セドリックを癒やしたフィオナの魔力、それはこの国で――いや、今はこの世界でも唯一かもしれない特別なものだった。
自覚なく生きてきたけれど、フィオナはどうもこの時代でたったひとりだけの女魔法使いなのだという。そしてたまたま生まれ持ったフィオナの魔力の性質が、人を癒やすというものだそうだ。
「そうね。まだ魔力の引き出し方や、体への廻らせ方を覚えている最中だけど、なんだかわくわくしているの」
フィオナは微笑んだ。
「あまりおおっぴらにできる力ではないけれど、もっとあなたの役に立てると嬉しいわ」
ライナスはいまだ成長過程にある。彼はすでに、フィオナにとっても大切な義弟だ。そんな彼のためにできることがあるのはとてもうれしい。だからフィオナは、人を癒やす力を授かったことを少なからず誇りに思うようになった。
(アランさまは、正確には『人の魔力の流れを正しく整えたり、浄化したりする能力』って仰っていたけれど)
専門的なことはフィオナもよくわかっていない。魔法はまだまだ初心者だ。
実は、セドリックの友人でこの国でも有数の魔法使いであるアランに、最近手ほどきのようなものをしてもらえるようになったのだ。
フィオナは世界魔法師協会や、この国の魔法省に属しているわけではない。そもそも、それらの魔法機関に対しても魔法使いであることを隠せと言われている。女魔法使いという存在があまりに稀少すぎて、どういう扱いになるかさっぱりわからないからだ。
普段目にする魔法使いが自由奔放なアランだから勘違いしそうになるが、魔法使いには実は制約が多い。
アラン曰く、魔力自体は人が生きるために必要なものであり、どんな人間でもごく微量の魔力を持ちあわせているものだそうな。ただ、それがいわゆる魔法として、なんらかの効力を発揮することができる人間はほとんどいない。そういった稀有な魔力量を保有した人間のことを、魔法使いと定めている。
おおよそ魔法使いとしての才能は成長期に目覚めることが多く、発見され次第、必ず魔法省に登録される。
リンディスタ王国では魔法使いの力を大きく認めていて、階級にもよるが、上位の三輝や七芒ともなれば、たとえ平民だとしても上級貴族と同等の権力が与えられるのだ。
だからこそ、制約がある。
まず、リンディスタ王国の魔法省に所属する魔法使いは、もれなく世界魔法師協会『叡智の樹』の管理下に置かれることとなる。魔法という力があまりに大きすぎて、なんらかのルールで縛る必要性があるというのが、世界中の共通見解なのだ。
魔法使いたちが守るべき制約のことを『叡樹の誓い』と呼ぶ。その内容は詳しく教えてもらうことはできなかったが、使用可能な魔法の規模や、政治利用に関する条件、対人で魔法を使用する際の細かい取り決めなどが定められているらしい。
ちなみにアランは『常識の範囲内で使えば問題ないんだよ』と言っていたが、彼の言う常識をあてにしていいのかどうかは、悩みどころである。
そういうわけで、組織に所属し、叡樹の誓いで縛られない限りは、術式と呼ばれる魔法の使い方を身に付けることなどできない。すべての術式は、魔法使いたちの間で口伝となっているためである。組織に所属しない人間に教えることなどないのだ。
しかし、女魔法使いであるフィオナが、それらの組織に所属するわけにはいかない。
女魔法使いに子ができると、その子にも確実に母体と同等の魔法の才能を継承できると言われている。歴史上、フィオナの前の女魔法使いは、もう二百年以上遡らないと存在しないらしいから、本当なのかどうかすらわからないが。
ただ、その性質上、存在がバレたら確実に他の魔法使いたちに狙われる。魔法使いの権力はフィオナが考えている以上に大きく、場合によってはセドリックと引き離されるような事態になるかもしれない。セドリックは次期公爵で確かな身分を持った男性ではあるが、それでもどうなるか、誰にも予測がつかない。
だからこそ、セドリックやライナス、アランなどの一部の人間以外には、絶対に女魔法使いであることがバレてはいけない。そう、セドリックやアランに口酸っぱく言われているのだ。
(アランさまの訓練も、本当に基礎の基礎だけだもの)
魔力が暴走しないように制御をするだけだ。そもそも、魔法省に所属していないのだから、アランも術式等を教えるわけにはいかないのだという。
そういうわけで、フィオナは自分が持って生まれた魔力の性質を活かす以上のことはできない。
(これで十分だけどね。誰かを癒やすことができる力で、本当によかった)
ちなみに、こういうフィオナのような隠れ魔法使いを『はぐれ魔法使い』と呼ぶらしい。なんとも怪しげな名前だが、実際にあまり表に出られない存在なのだから、言い得て妙だ。
一方、同じ魔法使いの才能があるセドリックはというと、その力が開花した頃に、すでに魔法使いの登録だけは済ませているらしい。とはいえ、魔法省に所属しているわけでもなく、きちんとした鍛錬を積んだわけでもない。だから叡樹の誓いに縛られることもなく、いち貴族として普通に過ごせるのだとか。
ただ、訓練をしていない身なので、その魔力は宝の持ち腐れとなる。本来ならば稀少な才能を無駄にすることなどあり得ないことだが、セドリックには確かな身分もあれば、魔法以外の才覚も溢れている。だから、魔法使いの道を捨てることに未練はないようだ。
(――なんて、わたしの存在がバレないように魔法省への所属を見送っていらっしゃるだけかもしれないのだけれど)
フィオナが彼の可能性を狭めているのかもしれない。なんてことも思うけれど、卑屈にはならないようにしている。
フィオナはフィオナで、彼の望む未来のために胸を張って横に立っていたいのだ。
改めて目標を噛みしめていると、隣からこほんと咳払いが聞こえた。
セドリックである。なにか言いたげな様子で、こちらをジッと見つめてくる。
「ライナスのことを気にしてくれるのはありがたいが、その、フィオナ」
先ほどからどうも言葉を濁している。いったいどうしたのだろうと彼に向き直ると、横からライナスのカラカラ笑う声が聞こえてきた。
「もう! 兄さん、いい加減覚悟を決めなよ! 頑張って取ったんでしょ、休暇!」
「休暇?」
セドリックほど忙しい人が休暇を取るだなんて、よほどのことだ。このところ仕事は好調だと聞いているが、一日休みを取るだけでもかなり無理をしないといけないことはフィオナも承知している。
この流れでは、もしかしなくてもフィオナのために休暇を取ってくれたということなのだろうか。彼と過ごす時間をたっぷりともらえるかもしれない。それはとても喜ばしい話題で、ついつい期待してしまう。
「君と結婚したというのに、ずっと、まとまった休みが取れていなかっただろう? 秋になって、仕事も落ち着いてきたし――そろそろ、どうかと思ってな」
「どう、とは?」
心臓がバクバク暴れている。なんだかセドリックの眼差しに熱がこもっている気がして、目を逸らせない。
「つまり、新婚旅行、なのだが」
「え……っ!?」
驚きすぎて大きな声が出てしまった。しかし、それも仕方がないことだと思う。
「新婚旅行? ――あ、あの、セドリックさま、お仕事は? 本当に、そのような時間が?」
捻出するなど、可能なのだろうか。
いや、セドリックのことだから抜かりはないのだろう。それはわかっているが、旅行というには日帰りというわけでもなさそうだ。少なくとも一泊二日。その時間を作り出すために、彼がどれほど仕事に根を詰めなければいけないのかと考えると、くらくらしてくる。
「あのな、フィオナ。今はもう秋だし、議会もほとんど動かない。もともとこの時期は時間を作りやすいんだ」
「そうなのですか?」
「今さらかもしれないが、君と夫婦になった実感がもっと欲しい。私に付き合ってくれるな?」
フィオナが気に病まないような誘い方をしてくれるところ、本当に優しい。フィオナは両手を頬にあて、こくりと小さく頷いた。
「旅行なんて、わたし、幼い時以来で。――セドリックさまとゆっくり過ごせるの、嬉しいです、とても」
思い返すと、実の両親が健在だった頃以来だ。緑溢れる湖畔の別荘を借りてのんびり過ごした思い出だけが残っている。
両親が身罷って以降は、自分とは縁のないものだと思っていた。だから大好きな人と初めての場所に行って楽しめるだなんて、夢みたいだ。
「――そうか」
フィオナの事情も理解しているからこそ、セドリックは少しだけ寂しそうに笑う。それから力強く頷いて、フィオナの手を取った。
「今までの分を取り返すくらい、向こうで楽しめばいい。オズワルド殿下が、すでにナバラル王国の別荘を手配してくれていてな。三週間ほどはゆっくりできるはずだ」
「さん、しゅう、かん……?」
予想だにしない長期間、しかも国外ときた。あまりの事態に思考がついていかない。彼に手を取られたまま、フィオナはぴしりと固まった。
すっかり秋が深まり、気温が落ち着いてきたこの季節。それでも昼間は暖かく、このウォルフォード家のタウンハウスにもいっぱいの陽差しが差し込んでくる。ぽかぽかとした過ごしやすい陽気の中、フィオナは足どり軽く、明るい声の聞こえる居間へと向かっていた。
秋のはじめに、フィオナは二十歳になった。年相応に落ち着きたいところだが、口もとが緩んで仕方がない。
キャラメルのような甘い色をした髪が揺れる。フィオナは若草色の瞳をキラキラと輝かせながら、ここ最近見られるようになったこの家の変化に心を弾ませていた。
「――から、――――でしょ?」
「だからライナス――そういちいち――」
居間から聞こえてくる声はふたつ。
相手をからかうような若い声と、なにかを言い淀む深い声。言い争っているような雰囲気があるけれども、兄弟同士のじゃれ合いであることをフィオナはよく知っている。
(ふふ、セドリックさま、今日も楽しそう)
深い声の持ち主こそ、フィオナの夫であるセドリックだ。フィオナに対しては表情豊かだが、それ以外の相手には基本的にクールだ。普段もさほど口数は多くない。弟であるライナスにすっかり言い負かされている様子だが、そこに剣呑とした空気はない。むしろ、ふたりの打ち解けた空気感が伝わってきて、フィオナの表情は自然と綻んだ。
ティーセットを手にしたまま、フィオナはひょっこりと顔を出す。そこには向かい合わせのソファーに座り、雑談に興じている兄弟の姿があった。
「って、兄さん。まさかとは思うけど、もしかしてまだ義姉さんに――」
「っ、おい! 待て!」
フィオナの存在に気が付いたセドリックが慌てて会話を止める。フィオナに聞かせたくない話題だったのだろうか。さっと耳まで真っ赤に染めたセドリックを前に、フィオナはぱちぱちと瞬いた。
ソファーで寛ぐ兄弟は、顔の造形こそ似ているが、雰囲気がまるで違う。
フィオナと目が合うなり、気恥ずかしそうに目を逸らしたのがセドリックだ。フィオナの夫で、二十四歳。このウォルフォード家の次期公爵とされている。
彼は宵闇色の艶やかな髪に菫色の切れ長の瞳を持った美貌の男性だった。こうして顔を背けていても、その整った横顔につい見とれてしまう。
すっと通った鼻筋に薄い唇。一見冷たい印象の見た目のせいか、あるいは合理的な性格のせいか、彼のことを冷酷だと称する人も少なくはない。
けれども、こうしてフィオナやライナスと一緒の時は、普段のクールな印象もなりを潜める。どこか肩の力が抜けた様子で、あどけない表情を見せたり甘えたりしてくれるようになった。
ただ、今の彼は少しだけ気まずそうだ。
「…………聞いていたのか」
とても声が小さい。というか、尻すぼみである。
「お邪魔してしまったでしょうか」
ふたりの会話に交じりたくて急いでしまったけれど、もう少しばかり兄弟だけの時間があった方がよかったのかと思う。間が悪かったとフィオナが肩を落としていると、セドリックは慌てて首を横に振った。
「いや! そういうわけではなくて! 聞いていなければいいんだ」
「えっと、おふたりの楽しげな様子は伝わってきましたけれど、内容までは」
「そうか」
フィオナの返事に、セドリックはあからさまにホッとしている。ようやく表情を緩めて、その場から立ち上がり、フィオナを迎えてくれた。
「すまない。多少気恥ずかしかっただけだ。茶を用意してきてくれたのだな」
などと言いながら、当たり前のことのようにフィオナの手からティーセットを受け取る。それらをさっとローテーブルに置いてから、フィオナの腰を抱いて自分の隣に誘った。ソファーに腰かけてからも、彼はフィオナの腰を抱いたままだ。
「うーわ、兄さん。そこまででろ甘なのに。嘘でしょ」
「うるさい」
ライナスのからかう声を聞き、セドリックはぴしゃりと言い放つ。けれどもフィオナを絶対離さないあたり、彼は徹底している。ライナスの言う『でろ甘』という言葉を実感し、フィオナの頬も桃色に染まった。
「まったく、この新婚夫婦は。あー、ほんと普段寮生活にしてよかったよ!」
結婚してからあと数カ月で一年となる。本来ならば、そろそろ関係性が落ち着いてくる時期のはずだ。ただ、セドリックと本当の意味で心が通じ合ってからはまだ三カ月程度である。そのため、ふたりの間に漂う空気はいまだに初々しいものだった。
夫婦であるはずなのに、どこか付き合いはじめの恋人のようなままだ。そのせいか、使用人たちに温かい目で見守られているのはわかっている。
フィオナ付きの侍女であるロビンなどは『いつまで経っても初々しくていらっしゃって』と苦笑いするほどだ。おそらく他の夫婦とは異なり、とてもゆっくりとした歩みなのだろう。
正直、彼とはまだまだ関係性を築いている最中なのである。だから、いまだにこうして腰を抱かれているだけで心臓がバクバク暴れて落ち着かない。
「いちゃいちゃしすぎで見ていて恥ずかしいっていうか。兄さんのこんな姿を見せられる身内の気持ちにもなってよ」
なんて肩を竦めながらも、ライナスは楽しそうに笑っている。
ライナスはセドリックと同じく、深い夜色の髪に菫色の瞳を持った青年だ。印象的には少年から青年への過渡期とでも言おうか。十六歳という年齢よりも少し幼い印象がある。
とはいえ、一カ月前と比べてさらに成長したようだ。すでに身長もフィオナと同じか、やや高いのではないだろうか。もともとの顔立ちがセドリックよりも柔らかい印象で、どこか中性的なため、より若く見えるのかもしれない。ただ、確実に大人の男性へ成長しようとする兆しがある。
かつて、セドリックの魔力暴走の弊害で、その成長を阻害されていたライナスは、ここ数カ月で驚くほど体が大きくなった。フィオナの特別な刺繍の効果で、今までの分を取り戻すかのようにぐんぐんと身長が伸びたらしい。
あと数カ月もすれば年相応の体つきになるだろう。同じ年齢の子たちと遜色なくなった彼は、この秋から晴れて王立高等学校へと通っている。念願の騎士になるために、騎士コースに編入を果たしたのだ。
今は学校の寮に入って、毎日しっかりと学んでいるようだ。そして休みになるたびに、このタウンハウスに顔を出してくれていた。
もう何年も、この兄弟はまともに顔を合わせることすらできていなかった。その時間を取り戻すかのごとく、和気あいあいとじゃれ合っているのである。
とても喜ばしくて微笑ましい光景であるけれども、今日は少しだけ合流するのが早かったようだ。セドリックは気にするなと言ってくれたが、気にならないはずがない。
兄弟水入らずの邪魔をしてしまったのが申し訳ない。フィオナは気落ちするのを隠すために、いそいそとお茶をカップに注ぐことにした。
「兄さんってば、相変わらず義姉さんが淹(い)れたお茶しか口にしないの?」
「別にフィオナの茶だけというわけでは。――その、彼女の淹れてくれるものが特別うまいのは事実だが」
「あーハイハイ。ご馳走さまー」
自分から話題を振っておきながら、ライナスは半笑いになっている。そうしてフィオナからティーカップを受け取ると、くぴっとひと口飲んだ。
「もう、味がわからないってこともないんでしょ?」
「む。まあ――そう、だが」
ライナスの言葉に、セドリックは口を噤む。
かつて、セドリックがライナスの成長を阻害したことを悔いているように、ライナスはライナスで、セドリックが長年魔力を封印してきたことを気にかけているようだ。
セドリックは十年もの間、自身の魔力を封印する特別な指輪をはめ続けてきた。体内に渦巻く莫大な魔力を、二度と暴走させないようにするために。その副作用により、彼は味覚や触覚などの感覚が鈍くなる他、まともな睡眠も取れない体になっていたのだ。
もちろん、今は改善した。フィオナが持つ特殊な魔力によって症状ははっきりと緩和したし、そもそも封印の指輪も壊れてしまった。だから彼は、人間としての当たり前の感覚を取り戻していた。
もう魔力を封印するつもりもないらしく、セドリックの指には新しい指輪が輝いている。フィオナの瞳の色をした結婚指輪だ。フィオナのものにはセドリックの瞳と同じ菫色の石がはめられており、対になっているのだ。
いい思い出も、苦い思い出も両方が詰まっているからこそ、フィオナはこれらの指輪を宝物のように思っていた。
ただ、それらの思い出がどれほど大切になっても、セドリックが約十年間も食事も睡眠も楽しめないまま生きてきたという事実は変わらない。
ライナスが休みのたびにこのタウンハウスに顔を出すのは、セドリックが穏やかに暮らしているのか確認する意味もあるのだろう。――どちらかと言うと、長らく会えなかった親愛なる兄にちょっかいをかけに来ている要素の方が大きそうだが。
「それもこれも全部、義姉さんのおかげって? 兄さん、義姉さんに感謝しなきゃだね」
「お前に言われずとも」
セドリックは口を尖らせた。
普段は主である王太子に対しても一歩も退かないほど弁が立つ彼だが、弟の前では形なしだ。耳まで真っ赤にしつつも、反論できないでいる。
「義姉さんも、あれからどう? 勉強は進んでる?」
ふと話を振られて、フィオナは瞬いた。
セドリックを癒やしたフィオナの魔力、それはこの国で――いや、今はこの世界でも唯一かもしれない特別なものだった。
自覚なく生きてきたけれど、フィオナはどうもこの時代でたったひとりだけの女魔法使いなのだという。そしてたまたま生まれ持ったフィオナの魔力の性質が、人を癒やすというものだそうだ。
「そうね。まだ魔力の引き出し方や、体への廻らせ方を覚えている最中だけど、なんだかわくわくしているの」
フィオナは微笑んだ。
「あまりおおっぴらにできる力ではないけれど、もっとあなたの役に立てると嬉しいわ」
ライナスはいまだ成長過程にある。彼はすでに、フィオナにとっても大切な義弟だ。そんな彼のためにできることがあるのはとてもうれしい。だからフィオナは、人を癒やす力を授かったことを少なからず誇りに思うようになった。
(アランさまは、正確には『人の魔力の流れを正しく整えたり、浄化したりする能力』って仰っていたけれど)
専門的なことはフィオナもよくわかっていない。魔法はまだまだ初心者だ。
実は、セドリックの友人でこの国でも有数の魔法使いであるアランに、最近手ほどきのようなものをしてもらえるようになったのだ。
フィオナは世界魔法師協会や、この国の魔法省に属しているわけではない。そもそも、それらの魔法機関に対しても魔法使いであることを隠せと言われている。女魔法使いという存在があまりに稀少すぎて、どういう扱いになるかさっぱりわからないからだ。
普段目にする魔法使いが自由奔放なアランだから勘違いしそうになるが、魔法使いには実は制約が多い。
アラン曰く、魔力自体は人が生きるために必要なものであり、どんな人間でもごく微量の魔力を持ちあわせているものだそうな。ただ、それがいわゆる魔法として、なんらかの効力を発揮することができる人間はほとんどいない。そういった稀有な魔力量を保有した人間のことを、魔法使いと定めている。
おおよそ魔法使いとしての才能は成長期に目覚めることが多く、発見され次第、必ず魔法省に登録される。
リンディスタ王国では魔法使いの力を大きく認めていて、階級にもよるが、上位の三輝や七芒ともなれば、たとえ平民だとしても上級貴族と同等の権力が与えられるのだ。
だからこそ、制約がある。
まず、リンディスタ王国の魔法省に所属する魔法使いは、もれなく世界魔法師協会『叡智の樹』の管理下に置かれることとなる。魔法という力があまりに大きすぎて、なんらかのルールで縛る必要性があるというのが、世界中の共通見解なのだ。
魔法使いたちが守るべき制約のことを『叡樹の誓い』と呼ぶ。その内容は詳しく教えてもらうことはできなかったが、使用可能な魔法の規模や、政治利用に関する条件、対人で魔法を使用する際の細かい取り決めなどが定められているらしい。
ちなみにアランは『常識の範囲内で使えば問題ないんだよ』と言っていたが、彼の言う常識をあてにしていいのかどうかは、悩みどころである。
そういうわけで、組織に所属し、叡樹の誓いで縛られない限りは、術式と呼ばれる魔法の使い方を身に付けることなどできない。すべての術式は、魔法使いたちの間で口伝となっているためである。組織に所属しない人間に教えることなどないのだ。
しかし、女魔法使いであるフィオナが、それらの組織に所属するわけにはいかない。
女魔法使いに子ができると、その子にも確実に母体と同等の魔法の才能を継承できると言われている。歴史上、フィオナの前の女魔法使いは、もう二百年以上遡らないと存在しないらしいから、本当なのかどうかすらわからないが。
ただ、その性質上、存在がバレたら確実に他の魔法使いたちに狙われる。魔法使いの権力はフィオナが考えている以上に大きく、場合によってはセドリックと引き離されるような事態になるかもしれない。セドリックは次期公爵で確かな身分を持った男性ではあるが、それでもどうなるか、誰にも予測がつかない。
だからこそ、セドリックやライナス、アランなどの一部の人間以外には、絶対に女魔法使いであることがバレてはいけない。そう、セドリックやアランに口酸っぱく言われているのだ。
(アランさまの訓練も、本当に基礎の基礎だけだもの)
魔力が暴走しないように制御をするだけだ。そもそも、魔法省に所属していないのだから、アランも術式等を教えるわけにはいかないのだという。
そういうわけで、フィオナは自分が持って生まれた魔力の性質を活かす以上のことはできない。
(これで十分だけどね。誰かを癒やすことができる力で、本当によかった)
ちなみに、こういうフィオナのような隠れ魔法使いを『はぐれ魔法使い』と呼ぶらしい。なんとも怪しげな名前だが、実際にあまり表に出られない存在なのだから、言い得て妙だ。
一方、同じ魔法使いの才能があるセドリックはというと、その力が開花した頃に、すでに魔法使いの登録だけは済ませているらしい。とはいえ、魔法省に所属しているわけでもなく、きちんとした鍛錬を積んだわけでもない。だから叡樹の誓いに縛られることもなく、いち貴族として普通に過ごせるのだとか。
ただ、訓練をしていない身なので、その魔力は宝の持ち腐れとなる。本来ならば稀少な才能を無駄にすることなどあり得ないことだが、セドリックには確かな身分もあれば、魔法以外の才覚も溢れている。だから、魔法使いの道を捨てることに未練はないようだ。
(――なんて、わたしの存在がバレないように魔法省への所属を見送っていらっしゃるだけかもしれないのだけれど)
フィオナが彼の可能性を狭めているのかもしれない。なんてことも思うけれど、卑屈にはならないようにしている。
フィオナはフィオナで、彼の望む未来のために胸を張って横に立っていたいのだ。
改めて目標を噛みしめていると、隣からこほんと咳払いが聞こえた。
セドリックである。なにか言いたげな様子で、こちらをジッと見つめてくる。
「ライナスのことを気にしてくれるのはありがたいが、その、フィオナ」
先ほどからどうも言葉を濁している。いったいどうしたのだろうと彼に向き直ると、横からライナスのカラカラ笑う声が聞こえてきた。
「もう! 兄さん、いい加減覚悟を決めなよ! 頑張って取ったんでしょ、休暇!」
「休暇?」
セドリックほど忙しい人が休暇を取るだなんて、よほどのことだ。このところ仕事は好調だと聞いているが、一日休みを取るだけでもかなり無理をしないといけないことはフィオナも承知している。
この流れでは、もしかしなくてもフィオナのために休暇を取ってくれたということなのだろうか。彼と過ごす時間をたっぷりともらえるかもしれない。それはとても喜ばしい話題で、ついつい期待してしまう。
「君と結婚したというのに、ずっと、まとまった休みが取れていなかっただろう? 秋になって、仕事も落ち着いてきたし――そろそろ、どうかと思ってな」
「どう、とは?」
心臓がバクバク暴れている。なんだかセドリックの眼差しに熱がこもっている気がして、目を逸らせない。
「つまり、新婚旅行、なのだが」
「え……っ!?」
驚きすぎて大きな声が出てしまった。しかし、それも仕方がないことだと思う。
「新婚旅行? ――あ、あの、セドリックさま、お仕事は? 本当に、そのような時間が?」
捻出するなど、可能なのだろうか。
いや、セドリックのことだから抜かりはないのだろう。それはわかっているが、旅行というには日帰りというわけでもなさそうだ。少なくとも一泊二日。その時間を作り出すために、彼がどれほど仕事に根を詰めなければいけないのかと考えると、くらくらしてくる。
「あのな、フィオナ。今はもう秋だし、議会もほとんど動かない。もともとこの時期は時間を作りやすいんだ」
「そうなのですか?」
「今さらかもしれないが、君と夫婦になった実感がもっと欲しい。私に付き合ってくれるな?」
フィオナが気に病まないような誘い方をしてくれるところ、本当に優しい。フィオナは両手を頬にあて、こくりと小さく頷いた。
「旅行なんて、わたし、幼い時以来で。――セドリックさまとゆっくり過ごせるの、嬉しいです、とても」
思い返すと、実の両親が健在だった頃以来だ。緑溢れる湖畔の別荘を借りてのんびり過ごした思い出だけが残っている。
両親が身罷って以降は、自分とは縁のないものだと思っていた。だから大好きな人と初めての場所に行って楽しめるだなんて、夢みたいだ。
「――そうか」
フィオナの事情も理解しているからこそ、セドリックは少しだけ寂しそうに笑う。それから力強く頷いて、フィオナの手を取った。
「今までの分を取り返すくらい、向こうで楽しめばいい。オズワルド殿下が、すでにナバラル王国の別荘を手配してくれていてな。三週間ほどはゆっくりできるはずだ」
「さん、しゅう、かん……?」
予想だにしない長期間、しかも国外ときた。あまりの事態に思考がついていかない。彼に手を取られたまま、フィオナはぴしりと固まった。