人嫌いと聞いていた王太子様が溺愛してくるのですが?~王太子妃には興味がないので私のことはどうぞお構いなく~
◇◇◇
「……あまり遅くなりすぎないうちに帰ってきて下さいよ」
「分かってる。ミラに迷惑は掛けないから」
「……そういう意味ではないんですけどね」
溜息を吐きながらも、ミラが秘密裏に入手した女官服を手渡してくれる。妃候補だとバレないようにとの配慮で、私は有り難くそれに着替えた。
用意を済ませ、荷物を持ってから一階にある後宮の庭に出て入り口へ回る。ミラが警備をしている近衛兵と話してくれている間に、上手く隙を突いて外に出た。
これは屋敷にいた時でもよく使っていた手で、コツを掴めば抜け出るくらいは簡単にできる。
「わー……! 綺麗な夜空!」
ミラの協力に感謝しながら、暗い夜道を歩く。空を見上げれば深い青の世界が広がっていた。
弾む心を抑えきれない。
わざわざ危険を冒してまで外に出なくても、月見くらい後宮の庭ですればいいのではと思うかもしれないが、違うのだ。
あそこはどうにも人の気配が多く、庭に出ても落ち着かない。
それに妃候補の誰かが来るかもしれないし。
つまりひとりになりたい私には向いていないのだ。
そんな私が狙うのは、王城の裏庭。
昼間に何度か散歩に訪れたことがあるのだが、裏庭は草花よりも木々が多く植えられていて、あまり面白みがないためか、いつ来ても人が少なかった。
昼でも人が少ないのなら、夜ならもっと落ち着けるだろう。
そう思った私は今夜の月見の場所に裏庭を選んだのだった。
時折、警備の兵士と擦れ違う。そのたびに声を掛けられたが「休憩をいただいたので、夜の散歩をしています」と言って誤魔化した。
女官服のお陰で、それ以上疑われることはない。
城の女官を全員覚えている兵士などいないだろう。堂々と振る舞えばいい。
夜で暗いこともあり、女官服さえ着ていれば勝手に女官だと思い込んでくれるのだ。
ミラ、グッジョブである。
「犯罪者の手口みたいだけど……まあ、仕方ないわよね」
てくてくと歩く。
そう、仕方ないのだ。
いつもの格好のまま外に出て見つかれば、間違いなく「こんな夜中にひとりで何をしているのだ」とお咎めを受けるだろうし、それがシャロンにバレた日にはどれだけ厭味を言われることか。
『とても公爵家の令嬢がすることとは思えないわね』
こんな感じで、見下した目をしてくれることは間違いない。
いい加減、シャロンにはうんざりしているので、これ以上彼女に攻撃する隙を与えたくはなかった。ミラの厚意を有り難く受け取り、己の正体を隠すのが、一番平和に話が収まる。
てくてくと歩くうちに、裏庭へと到着する。
思った通り、裏庭は静かで誰もいなかった。よしよしと思いながら、目的地を目指す。しばらく歩けば、芝が敷かれた広場のような場所があるのだ。
そこで月見としゃれ込もうと考えていた。
裏庭は他の庭に比べて格段に灯りが少なくて暗い。でもだからこそ天体観測には最適なのだ。
「到着、と」
広場に着いた私は、早速手に持っていたバスケットの中から敷布を取り出した。
テキパキと芝の上に敷き、大の字に寝転がる。
満月が美しく輝いている様がよく見えた。
「ああ、空が綺麗ね……」
大きな月がとても美しい。
残念ながら満月なので暗い星は見えないが、明るいものならそれなりに楽しめる。
満月と星。眺めているだけで心が癒やされた。
「ええっと……確かあれは」
満月の中でも、強く自己主張する星に目を向ける。
日本で見ていた星の配置とは当然違う。最近勉強しているこちらの世界の知識を思い出しながら呟いた。
「そうそう、トリネって星だったっけ」
世界は違っても、星に名前を付けようとする感性は同じようで、特に目立つ星には名前が付けられているのだ。
時の国王の名前だったり、有名な建築家の作品名を付けたりしていて面白い。
星になぞらえた神話もある。荒唐無稽なものも多く、調べると結構楽しいのだ。
「静かね……」
この場所を選んで正解だった。
人の声はなく、代わりに虫の声や風が木々を揺らす音が聞こえる。周囲は薄暗く、優しい闇が私を包んでいた。前世、私がソロキャンを好んでいたのは、キャンプにひとりで行けば、この環境が確実に手に入るからだ。
自然と薄闇に囲まれた中、夜空を眺める時間は何物にも代えがたい。
「はあ……幸せ……」
あまり長居はできないが、限られた時間の中、目一杯楽しもう。
そんなことを思いながら再度月に集中するも、何ということだろう。酷く無粋なことに邪魔する者が現れた。
「……こんなところで何をしている」
「……ん?」
低く不機嫌そうな声に眉を寄せる。
せっかく楽しんでいたのにと思いながらも私は身体を起こして、声の主を見た。
男の人。
どうやら近衛兵のようだ。深緑色の制服と制帽で、すぐに分かる。
もしかして巡回のタイミングと被ってしまったのだろうか。
そう考え、慌てて立ち上がった。
真夜中の警備中、女が地面に寝転がっていたら驚くのも当然だから、悪いことをしてしまった。
頭を下げる。
「お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ありません。休憩をいただいたので、ここで月や星を眺めていたのです」
今の私は女官という設定なので、それらしく振る舞う。顔を上げると近衛兵と目が合った。
瞬間、青い瞳に胸を打ち抜かれる。
――うわ。
思わず声をあげてしまいそうなほど、整った顔をした男だった。
不機嫌そうな表情をしているが、その目の力は強く、妙に惹きつけられるものがある。
硬質な美形と言えばいいのだろうか。甘さの一切を排除したかのような冷たい雰囲気に一瞬、恐ろしさに似たものを感じてしまった。
髪の毛は金色。制帽をかぶっているのでどんな髪型をしているかは分からないが、毛はふわふわとして柔らかそうだ。
切れ長の目は鋭く、目尻も吊り上がっている。鼻の形がとても綺麗だ。薄く形のいい唇は硬く引き結ばれていた。
背が高い。姿勢がいいからだろうか。近衛兵の制服がとても似合っていた。
腰に剣を提げている。
金髪碧眼で明るい朝を思わせる色合いなのに、その雰囲気から、私には彼が夜空を具現化した人であるように思えた。
――綺麗な人。
どこかの貴族の息子だろうか。
ただ立っているだけでも非常に洗練された独特の雰囲気を感じるのだ。とてもではないが平民には思えない。
警備は王城に詰めている近衛隊が行うが、そこには色々な階級の人がいる。
平民でも貴族でも実力があれば近衛隊に入れるのだ。
きっと彼は貴族階級出身の近衛兵なのだろう。
そんな風に考えていると、目の前の彼は眉を中央に寄せた。
「月や星を見ていた、だと? ずいぶんと酔狂だな。所属は? どこの者だ」
言外に怪しいと言われ、内心焦った。
彼に私が後宮の妃候補だと知られたくない。だってこっそり抜け出してきたのだ。私だけが怒られるならまだしも、協力してもらったミラに迷惑が掛かるのは駄目だ。
――な、何とか、何とか上手く言いくるめなくっちゃ。
必死に頭を働かせるも、名案などそうそう思いつくものではない。
それでも何とか口を開いた。
「……ぶ、無粋ね。休憩中だって言ったでしょ。仕事の話はしたくないわ。そういうあなたこそどこの誰よ。私、あなたの顔を見たことがないんだけど」
自分のことは答えず、質問返しをするという手に出た。
敬語をやめたのは、今は仕事中ではないことを強調したかったから。
互いに『近衛兵』『女官』というだけなら身分はそう変わらない。だが、仕事中ならお互い敬意を示す意味で敬語を使うのだ。
通常は、友達口調で問題ない。
彼が最初に命令口調だったのは、私が女官だと気づかなかったからだろう。不審者相手に普通、敬語は使わないと思うから当然だ。
――ど、どう? 完璧な女官ぶりでしょう? これで上手く誤魔化されてくれれば……。
祈るような気持ちで男を見ると、男は何故か動揺したように瞳を揺らした。私からすっと視線を逸らす。
「べ、別にどこの誰でも構わないだろう」
「ん?」
――あれ?
改めて男を観察する。彼は慌てたように口を開いた。
「……わ、私も、その、休憩中なんだ。……これ以上はプライバシーの侵害。つまらない詮索はしないでもらいたい」
「ふうん」
どうやら彼も私と一緒で何らかの『訳あり』であると察した。
何だろう。身なりもきちんとしているし、不審者には見えないけど。
とはいえ、深く探られたら困るのはこちらも同じ。追及しないのが互いのためだ。
向こうがこれ以上探らないでくれるのなら、こちらも聞かないでおこうと決める。
「何だ。てっきり警備の巡回に来たのかと思ったのに。……え、でもこんなところに休憩に来たの?」
王城の裏庭は暗くて、あまり楽しい場所ではない。
私にとっては絶好の天体観測スポットと言えるが、普通の人がわざわざ夜に訪れないと思うのだ。それこそ仕事でもない限り。
それが不思議だったのだけれど、彼はムッとした顔をしつつも答えてくれた。
「……仕事で少し嫌なことがあって。誰もいないところへ行きたかったんだ」
「酔狂なのはお互い様じゃない」
「……確かにそうだな」
男がフッと笑う。
そうすると張り詰めたような雰囲気が少し和らいだ。
「君のことは気になるけど、立ち入られたくないのはお互い様だからやめておくことにするよ」
――おや。
先ほどまでとは違う口調。こちらが彼本来の話し方なのだろうか。
そう思いつつ、彼に言った。
「私もあなたの事情は気になるけど、聞かない。通りすがりの近衛兵と思っておくことにするわ」
「なら、君は酔狂な女官ということだ」
「……酔狂はお互い様ってことになったじゃない」
「いいじゃないか。さっき君がそこで転がっているのを見た時、何事かと本気で焦ったんだから。今だって意味が分からないと思っている」
「夜空を見上げるには、寝転がるのが一番いいのよ」
変なことをしている自覚はあるので、何となくだけれど気まずい気分になる。
「お月見がしたかったの。だって、今夜は満月だから」
「お月見?」
こちらの世界にない風習なので、男が首を傾げる。簡単に説明した。
「月を愛でるのよ。今日は持ってきていないけど、お菓子やお茶をお供にしてね」
「ふうん。月を愛でるとはよく分からない考え方だな」
「世の中には、あなたの知らないことがまだまだあるってこと。そういうものだって思っておけばいいと思うの」
前世云々の話をするつもりはないので、適当に誤魔化す。
ふと、彼がさっき言ったことを思い出した。
「そういえばあなた、嫌なことがあったんでしょ? それなら一緒にどう? 寝転がって夜空を見上げていれば、自分の抱えている悩みなんて些細なものだって思えるわよ」
誘ったことに特別な意味はない。
嫌なことがあったと言っていたから、それなら一緒にストレス解消はどうかと思っただけ。
基本、天体観測はひとりでしたいが、誰かいることを全く受け入れられないわけではないし、しんどい人に居場所を分け与えるくらいなら私にだってできる。
男は驚いたような顔をして私を見たが、やがて首を左右に振った。
「いや、やめておこう」
「そう?」
「君の楽しみを奪う気はない。それに私は星が――。いや、これは君には関係ないことだった。忘れて欲しい」
「?」
何を言いかけたのか気にはなったが、聞いて欲しくなさそうだったので黙る。
「ではな。――休憩が済んだらさっさと持ち場に戻るんだぞ」
「……分かってるわ」
本当は女官ではないので、一瞬返答が遅れた。
それでも何とか返事をする。
男は小さく笑い、裏庭の更に奥へと入っていった。多分だけど、ひとりになれる場所を探すのだろう。
彼の姿が見えなくなるまで見送る。
何となくだけど、このまま月見をする気分ではなくなった。
今夜はお茶もお菓子も用意していないし。
満月の夜というだけならこれからいくらでも機会はある。また次のチャンスを狙おうと決め、片付けの準備を始めた。
敷布をバスケットに戻し、後宮へ戻る。
「……ただいま」
「もう、お嬢様。遅いですよ」
「ごめん、ごめん」
再び、ミラの手引きで自室へ戻る。その頃にはもう、名も知らぬ男のことは忘れていた。
「……あまり遅くなりすぎないうちに帰ってきて下さいよ」
「分かってる。ミラに迷惑は掛けないから」
「……そういう意味ではないんですけどね」
溜息を吐きながらも、ミラが秘密裏に入手した女官服を手渡してくれる。妃候補だとバレないようにとの配慮で、私は有り難くそれに着替えた。
用意を済ませ、荷物を持ってから一階にある後宮の庭に出て入り口へ回る。ミラが警備をしている近衛兵と話してくれている間に、上手く隙を突いて外に出た。
これは屋敷にいた時でもよく使っていた手で、コツを掴めば抜け出るくらいは簡単にできる。
「わー……! 綺麗な夜空!」
ミラの協力に感謝しながら、暗い夜道を歩く。空を見上げれば深い青の世界が広がっていた。
弾む心を抑えきれない。
わざわざ危険を冒してまで外に出なくても、月見くらい後宮の庭ですればいいのではと思うかもしれないが、違うのだ。
あそこはどうにも人の気配が多く、庭に出ても落ち着かない。
それに妃候補の誰かが来るかもしれないし。
つまりひとりになりたい私には向いていないのだ。
そんな私が狙うのは、王城の裏庭。
昼間に何度か散歩に訪れたことがあるのだが、裏庭は草花よりも木々が多く植えられていて、あまり面白みがないためか、いつ来ても人が少なかった。
昼でも人が少ないのなら、夜ならもっと落ち着けるだろう。
そう思った私は今夜の月見の場所に裏庭を選んだのだった。
時折、警備の兵士と擦れ違う。そのたびに声を掛けられたが「休憩をいただいたので、夜の散歩をしています」と言って誤魔化した。
女官服のお陰で、それ以上疑われることはない。
城の女官を全員覚えている兵士などいないだろう。堂々と振る舞えばいい。
夜で暗いこともあり、女官服さえ着ていれば勝手に女官だと思い込んでくれるのだ。
ミラ、グッジョブである。
「犯罪者の手口みたいだけど……まあ、仕方ないわよね」
てくてくと歩く。
そう、仕方ないのだ。
いつもの格好のまま外に出て見つかれば、間違いなく「こんな夜中にひとりで何をしているのだ」とお咎めを受けるだろうし、それがシャロンにバレた日にはどれだけ厭味を言われることか。
『とても公爵家の令嬢がすることとは思えないわね』
こんな感じで、見下した目をしてくれることは間違いない。
いい加減、シャロンにはうんざりしているので、これ以上彼女に攻撃する隙を与えたくはなかった。ミラの厚意を有り難く受け取り、己の正体を隠すのが、一番平和に話が収まる。
てくてくと歩くうちに、裏庭へと到着する。
思った通り、裏庭は静かで誰もいなかった。よしよしと思いながら、目的地を目指す。しばらく歩けば、芝が敷かれた広場のような場所があるのだ。
そこで月見としゃれ込もうと考えていた。
裏庭は他の庭に比べて格段に灯りが少なくて暗い。でもだからこそ天体観測には最適なのだ。
「到着、と」
広場に着いた私は、早速手に持っていたバスケットの中から敷布を取り出した。
テキパキと芝の上に敷き、大の字に寝転がる。
満月が美しく輝いている様がよく見えた。
「ああ、空が綺麗ね……」
大きな月がとても美しい。
残念ながら満月なので暗い星は見えないが、明るいものならそれなりに楽しめる。
満月と星。眺めているだけで心が癒やされた。
「ええっと……確かあれは」
満月の中でも、強く自己主張する星に目を向ける。
日本で見ていた星の配置とは当然違う。最近勉強しているこちらの世界の知識を思い出しながら呟いた。
「そうそう、トリネって星だったっけ」
世界は違っても、星に名前を付けようとする感性は同じようで、特に目立つ星には名前が付けられているのだ。
時の国王の名前だったり、有名な建築家の作品名を付けたりしていて面白い。
星になぞらえた神話もある。荒唐無稽なものも多く、調べると結構楽しいのだ。
「静かね……」
この場所を選んで正解だった。
人の声はなく、代わりに虫の声や風が木々を揺らす音が聞こえる。周囲は薄暗く、優しい闇が私を包んでいた。前世、私がソロキャンを好んでいたのは、キャンプにひとりで行けば、この環境が確実に手に入るからだ。
自然と薄闇に囲まれた中、夜空を眺める時間は何物にも代えがたい。
「はあ……幸せ……」
あまり長居はできないが、限られた時間の中、目一杯楽しもう。
そんなことを思いながら再度月に集中するも、何ということだろう。酷く無粋なことに邪魔する者が現れた。
「……こんなところで何をしている」
「……ん?」
低く不機嫌そうな声に眉を寄せる。
せっかく楽しんでいたのにと思いながらも私は身体を起こして、声の主を見た。
男の人。
どうやら近衛兵のようだ。深緑色の制服と制帽で、すぐに分かる。
もしかして巡回のタイミングと被ってしまったのだろうか。
そう考え、慌てて立ち上がった。
真夜中の警備中、女が地面に寝転がっていたら驚くのも当然だから、悪いことをしてしまった。
頭を下げる。
「お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ありません。休憩をいただいたので、ここで月や星を眺めていたのです」
今の私は女官という設定なので、それらしく振る舞う。顔を上げると近衛兵と目が合った。
瞬間、青い瞳に胸を打ち抜かれる。
――うわ。
思わず声をあげてしまいそうなほど、整った顔をした男だった。
不機嫌そうな表情をしているが、その目の力は強く、妙に惹きつけられるものがある。
硬質な美形と言えばいいのだろうか。甘さの一切を排除したかのような冷たい雰囲気に一瞬、恐ろしさに似たものを感じてしまった。
髪の毛は金色。制帽をかぶっているのでどんな髪型をしているかは分からないが、毛はふわふわとして柔らかそうだ。
切れ長の目は鋭く、目尻も吊り上がっている。鼻の形がとても綺麗だ。薄く形のいい唇は硬く引き結ばれていた。
背が高い。姿勢がいいからだろうか。近衛兵の制服がとても似合っていた。
腰に剣を提げている。
金髪碧眼で明るい朝を思わせる色合いなのに、その雰囲気から、私には彼が夜空を具現化した人であるように思えた。
――綺麗な人。
どこかの貴族の息子だろうか。
ただ立っているだけでも非常に洗練された独特の雰囲気を感じるのだ。とてもではないが平民には思えない。
警備は王城に詰めている近衛隊が行うが、そこには色々な階級の人がいる。
平民でも貴族でも実力があれば近衛隊に入れるのだ。
きっと彼は貴族階級出身の近衛兵なのだろう。
そんな風に考えていると、目の前の彼は眉を中央に寄せた。
「月や星を見ていた、だと? ずいぶんと酔狂だな。所属は? どこの者だ」
言外に怪しいと言われ、内心焦った。
彼に私が後宮の妃候補だと知られたくない。だってこっそり抜け出してきたのだ。私だけが怒られるならまだしも、協力してもらったミラに迷惑が掛かるのは駄目だ。
――な、何とか、何とか上手く言いくるめなくっちゃ。
必死に頭を働かせるも、名案などそうそう思いつくものではない。
それでも何とか口を開いた。
「……ぶ、無粋ね。休憩中だって言ったでしょ。仕事の話はしたくないわ。そういうあなたこそどこの誰よ。私、あなたの顔を見たことがないんだけど」
自分のことは答えず、質問返しをするという手に出た。
敬語をやめたのは、今は仕事中ではないことを強調したかったから。
互いに『近衛兵』『女官』というだけなら身分はそう変わらない。だが、仕事中ならお互い敬意を示す意味で敬語を使うのだ。
通常は、友達口調で問題ない。
彼が最初に命令口調だったのは、私が女官だと気づかなかったからだろう。不審者相手に普通、敬語は使わないと思うから当然だ。
――ど、どう? 完璧な女官ぶりでしょう? これで上手く誤魔化されてくれれば……。
祈るような気持ちで男を見ると、男は何故か動揺したように瞳を揺らした。私からすっと視線を逸らす。
「べ、別にどこの誰でも構わないだろう」
「ん?」
――あれ?
改めて男を観察する。彼は慌てたように口を開いた。
「……わ、私も、その、休憩中なんだ。……これ以上はプライバシーの侵害。つまらない詮索はしないでもらいたい」
「ふうん」
どうやら彼も私と一緒で何らかの『訳あり』であると察した。
何だろう。身なりもきちんとしているし、不審者には見えないけど。
とはいえ、深く探られたら困るのはこちらも同じ。追及しないのが互いのためだ。
向こうがこれ以上探らないでくれるのなら、こちらも聞かないでおこうと決める。
「何だ。てっきり警備の巡回に来たのかと思ったのに。……え、でもこんなところに休憩に来たの?」
王城の裏庭は暗くて、あまり楽しい場所ではない。
私にとっては絶好の天体観測スポットと言えるが、普通の人がわざわざ夜に訪れないと思うのだ。それこそ仕事でもない限り。
それが不思議だったのだけれど、彼はムッとした顔をしつつも答えてくれた。
「……仕事で少し嫌なことがあって。誰もいないところへ行きたかったんだ」
「酔狂なのはお互い様じゃない」
「……確かにそうだな」
男がフッと笑う。
そうすると張り詰めたような雰囲気が少し和らいだ。
「君のことは気になるけど、立ち入られたくないのはお互い様だからやめておくことにするよ」
――おや。
先ほどまでとは違う口調。こちらが彼本来の話し方なのだろうか。
そう思いつつ、彼に言った。
「私もあなたの事情は気になるけど、聞かない。通りすがりの近衛兵と思っておくことにするわ」
「なら、君は酔狂な女官ということだ」
「……酔狂はお互い様ってことになったじゃない」
「いいじゃないか。さっき君がそこで転がっているのを見た時、何事かと本気で焦ったんだから。今だって意味が分からないと思っている」
「夜空を見上げるには、寝転がるのが一番いいのよ」
変なことをしている自覚はあるので、何となくだけれど気まずい気分になる。
「お月見がしたかったの。だって、今夜は満月だから」
「お月見?」
こちらの世界にない風習なので、男が首を傾げる。簡単に説明した。
「月を愛でるのよ。今日は持ってきていないけど、お菓子やお茶をお供にしてね」
「ふうん。月を愛でるとはよく分からない考え方だな」
「世の中には、あなたの知らないことがまだまだあるってこと。そういうものだって思っておけばいいと思うの」
前世云々の話をするつもりはないので、適当に誤魔化す。
ふと、彼がさっき言ったことを思い出した。
「そういえばあなた、嫌なことがあったんでしょ? それなら一緒にどう? 寝転がって夜空を見上げていれば、自分の抱えている悩みなんて些細なものだって思えるわよ」
誘ったことに特別な意味はない。
嫌なことがあったと言っていたから、それなら一緒にストレス解消はどうかと思っただけ。
基本、天体観測はひとりでしたいが、誰かいることを全く受け入れられないわけではないし、しんどい人に居場所を分け与えるくらいなら私にだってできる。
男は驚いたような顔をして私を見たが、やがて首を左右に振った。
「いや、やめておこう」
「そう?」
「君の楽しみを奪う気はない。それに私は星が――。いや、これは君には関係ないことだった。忘れて欲しい」
「?」
何を言いかけたのか気にはなったが、聞いて欲しくなさそうだったので黙る。
「ではな。――休憩が済んだらさっさと持ち場に戻るんだぞ」
「……分かってるわ」
本当は女官ではないので、一瞬返答が遅れた。
それでも何とか返事をする。
男は小さく笑い、裏庭の更に奥へと入っていった。多分だけど、ひとりになれる場所を探すのだろう。
彼の姿が見えなくなるまで見送る。
何となくだけど、このまま月見をする気分ではなくなった。
今夜はお茶もお菓子も用意していないし。
満月の夜というだけならこれからいくらでも機会はある。また次のチャンスを狙おうと決め、片付けの準備を始めた。
敷布をバスケットに戻し、後宮へ戻る。
「……ただいま」
「もう、お嬢様。遅いですよ」
「ごめん、ごめん」
再び、ミラの手引きで自室へ戻る。その頃にはもう、名も知らぬ男のことは忘れていた。