やっぱり血祭くんが好き!【こちらはマンガシナリオです】
10章
夜十時。
『今バイト帰りなんだけど』
とつぜん、私のスマホに陽斗くんからラインが来た。
三十分ほど前――。
『学級委員長の仕事を思い出して職員室に行ったんだ』
私がそう陽斗くんにラインを送ってからの、ようやくの反応だった。
てゆうかもう、返信を待ってる間、私は超不安だった。
ドキドキが止まらず、心臓がバクバク音を立てていた。
返信のなかった三十分間が、もう永遠に感じられるぐらい長かった。
だって。
だってね。
私にとっては、家族以外の人との、はじめてのラインのやり取りだったんだもん。
お母さんが時々私にする既読スルーとは、もうわけが違ったの。
正直、もう連絡がないんじゃないかって思ってた。
スマホの電源を切って、一生そのままにしようかとも考えた。
今朝とつぜん消えた理由がなんか言い訳みたいで、そんなラインを送った私はもう……きっとダメなんじゃないかって……私、諦めてたんだ。
それでも、奇跡というのは、とつぜん起きるようだ。
これって、よくいう、あれみたいなことなのかな?
ええと。
なんだっけ。
あ、そう!
ピンチはチャンス?
これがその、ピンチはチャンスってやつ?
とにかく、
「キャアアア」
私は陽斗くんからの返信に浮かれていた。
超がつくほどに。
いや、戸惑いも半分ぐらいはあるんだけど、ね。
そう。
『今から打出小槌神社に寄っていいかな?』
彼は立て続けにこんなラインを送ってきたんだ。
とつぜん、私に会いにやって来るって。
「うそだぁ……」
私は手を団扇みたいにし、火照った顔をあおぎまくる。
こんな返信が来るなんて、やっぱり信じられないよ。
ついさっきまで、私は陽斗くんに嫌われちゃったって、そんなふうに考えていたのに。
ラインなんかこの世から消えてしまえばいいって思ってたのに。
それが、それが……。
私はベッドで正座になる。
もういちどドキドキしながら、じーっとスマホの文面を眺めた。
「今……から?」
陽斗くんが、今から?
やって来るの?
ここへ?
本当?
「ええ!」
やっぱり、なんど読んでもそう書いてある。
爽やかな笑みを浮かべた彼が、うちの鳥居をくぐる姿を想像した瞬間、
「キャアアア――」
と、私はつい歓喜の声を張り上げてしまうのだった。
だが。
「ダメ!」
すぐに口元に手をやって、私は首をブンブン横に振る。
落ち着いて。
落ち着いて、私。
私はドキドキと自室でキョロキョロする。
壁に耳あり障子に目あり、っていうよね。
今の、お母さんに聞かれてないよね?
陽斗くんがここへ来ることがバレたら、絶対マズいよ。
うちのお母さん、分け隔てないっていうか、人類みな兄妹みたいなところがあるから、初対面の人でも好き勝手に話しかけるんだ。
ねえ、ふたりはどんな関係なの?
ねえ、美雨は学校で上手くやってる?
ねえ、陽斗くんってどんな子がタイプなの?
私の頭の中で、お母さんが陽斗くんに質問しまくる映像が浮かんだ。
「……絶対ダメだよぉ」
しかもデリカシーが。
私は唇を噛み考える。
陽斗くんには会いたい。
でも、お母さんにはバレたくない。
なら。
こっそり家を出ちゃうか?
いや、お母さんは地獄耳だから、戸口の開け閉めの音でバレるよぉ……。
じゃ、じゃあ。
境内の掃除をするっていえばいいかな?
今から?
「いや、もう夜十時だよぉ」
私は自分にツッコミを入れる。
じゃあ……ええと、ええと。
「そうだ!」
私はそこでグッドアイデアが閃く。
こんな時間にお母さんに怪しまれずに外に出る簡単な方法を。
そうだよ、境内で飼ってる猫にエサをあげにいけばいいんだ。
「うん、これならいけそう」
陽斗くんも、うちで飼ってる猫に興味をもってたし。
そう考え、私はすぐに行動に出た。
『今から打出小槌神社に寄っていいかな?』
という陽斗くんのラインに、
『うん、いいよ。境内で待ってるね』
と、ようやく一歩前進できた返信を送ったのだ。
送信ボタンを押した瞬間、私の心臓は高鳴った。
ドキドキじゃなく、ドクドクじゃなく、バクバクドキンと心臓が鳴った。
すごい。
すごいすごい。
私に、すごいことが起きてる。
私は、憧れの陽斗くんとラインのやり取りをしたんだ。
しかも、しかも――。
「待ち合わせの連絡までしちゃったぁ……」
少しずつ実感が湧いてきた私は、顔がポーっと熱くなるのを感じた。
「なんか、うそみたいだぁ」
思わずそうつぶやくと、頭がクラクラしてしまった。
その拍子に、
ガンッ。
「いたっ」
脱力して、私は背中の壁に後頭部をぶつけてしまう。
「イテてて……」
うぅ。
しっかりしなきゃ。
これから、陽斗くんが来るんだよ。
私、落ち着いて。
ちゃんと、バイト帰りの彼を迎えてあげないと。
「――ふぅ」
深呼吸をして気持ちを整えると、私は両手で軽く頬を包んだ。
「これはダメだぁ、ダメなやつだぁ」
気をつけないと、ケガしちゃうよぉ。
恋は盲目って、あれって、本当だったんだぁ。
***
オレは夜の国道沿いを自転車で走っていた。
「はぁはぁはぁ」
ママチャリの前かごに通学バッグを入れ、制服姿のオレは立ちこぎで、一秒でもはやく打出小槌神社に行こうとペダルをこぎまくった。
神宮寺さん、怒ってなかったんだ。
オレ、嫌われてなかったんだ。
『うん、いいよ。境内で待ってるね』
そんな彼女からのラインを見て、オレは嬉しさで飛び跳ねそうだった。
結衣さんのいう通り、勢いでラインを送ってみたら、チャンスが来た。
「ありがとう結衣さん! オレ、まだ大丈夫かもです」
オレは、大阪方面へ走る大型トラックと並走しつつ、
「やったーっ」
立ちこぎしながら右手をグッとあげ、大声で叫んだ。
ずっと、彼女に嫌われてしまったって、不安だった。
でも、どうやら、それは杞憂だったようだ。
本当に嫌われていたら、オレはこうして神社へは向かっていなかっただろう。
神宮司さんが会ってくれるってことは、つまりは、そういうこと。
なんだかうそみたいだ。
オレは、神宮司さんと会う約束をしたんだ。
そして、バイト先からはや五分、
「はぁはぁはぁ――神宮寺さん」
オレは阪神打出駅近くにある、打出小槌神社に到着していた。
夏の、少し湿気が混じった夜風を顔に感じつつ、オレは正面入り口に自転車を停める。
そして石造りの鳥居をくぐって、小奇麗な石畳を進んだところで、オレは本殿の賽銭箱の前に彼女を発見。
「はぁはぁはぁ、神宮寺さんっ」
呼ぶと、彼女がハッと顔をあげた。
その場にしゃがみ込む神宮寺さんは、ボルドーのワンピース姿だった。
前髪で隠れて、表情はよく読み取れなかったけど、
「あ、ああああ、朝野……くん」
オレを見た瞬間に、彼女はとっさに立ちあがった。
「神宮寺さん」
「あああ、朝野くん」
そして彼女は、胸の前で小さく手も振ってくれた。
たぶん、いや絶対、口元には笑みがこぼれていた……はず。
とにかく、よかった。
ようやく安心できたオレは、心底ここへ来てよかったと思う。
気がつくとオレは境内を走っていた。
そして。
「はぁはぁ、ごめんね、こんな時間に呼び出しちゃって」
すぐに賽銭箱の前で、オレは彼女に謝った。
「ううん」
「はぁはぁはぁ、なんか……驚かせちゃったよね……はぁはぁはぁ」
「い、いやいやいや、全然そんな」
神宮司さんが小さく肩をすくめる。
「で、でででも……ど、どどど……どうしたのかなって」
「ええっと」
彼女に訊かれ、オレは思わず鼻の頭をかく。
オレは少し迷っていたんだ。
朝から登校に誘ったり、ライン交換を迫ったり、果ては神宮司さんに学校で逃げられ、オレは嫌われてしまったんじゃないかって心配していたこと。
それを正直にいうべきかどうかって……。
だが。
「バイト中にふと思い出したんだ」
「ふ、ふふふ……ふと?」
「そう。今朝ラインを交換したとき、キミのアイコンを見ただろ」
「猫の……」
「うん、それ。神社で飼ってる猫に……会いたいなって思ってさ」
それも本当のことだった。
うそをついたわけじゃない。
オレはバイト中、神宮司さんが神社で飼っている三毛猫のことも考えていた。
常に家には猫がいる環境で育ったオレは、無類の猫好きだったから。
それに、正直にいえば神宮寺さんをまた困らせると思ったんだ。
キミに嫌われたかもって、キミを怒らせたかもって、それを確かめたくって会いに来たんだって――そんなことをいえば、絶対戸惑うよなって。
困るよなって。
いや……。
正直にいえば、神宮寺さんの本音を知る勇気なんて、今のオレにはなかったのかも。
ハッキリと断られたくないから、オレは逃げたんだ。
猫は本当に好きなんだけど……。
すると、神宮寺さんはまた賽銭箱の前でしゃがみ込んで、
「出ておいで、ボッチ」
暗がりにそう声をかけながら、液状のおやつをポケットから一本取りだした。
オレも彼女の隣にしゃがみ込む。
「それ、猫が大好きな『ちゅーる』?」
「あ、う、うん」
訊くと、神宮寺さんの艶やかな黒髪が夜風に揺れた。
「ボッチって、三毛猫の名前?」
「そ、そそそ、そうなんだ……見つけたとき、ひとりぼっちだったから……ボッチって名付けたんだ……ボッチは怖がりで、すすす、すぐに逃げちゃうんだ」
「ボッチー」
オレも暗がりに声をかけるが、ミャアともミーともすんともいわない。
「せせせ、せっかく朝野くんが来てくれたのに……」
「気にしないで。また会いに来るよ」
「あ、う、ううううん」
そこで神宮司さんがゆっくりと立ち上がる。
すると。
「あ、あああの……」
賽銭箱の木枠の上から、そこに乗っている木のトレイを取った。
そこには、はがきサイズの白い封筒が十袋ほど並べられてある。
神宮寺さんはそれをひとつ取って、オレに手渡してくれたんだ。
「こ、こここ、これ……どうぞ」
「これって?」
「お、おおお、お清めとかに使われる粗塩なんだ」
「へえ」
「わ、わわわわりと人気で……す、すすすすぐになくなっちゃうの」
「そうなんだ。ありがとう、すごく嬉しいよ」
「も、ももも、持ってるだけで……そ、そそそその、交通安全祈願に……なるよ」
「交通安全」
オレがふと自転車を止めた正面入り口の方を見ると。
「あ、ああああ、朝野くんが……自転車で来るのが……見えて」
「そっか。オレ、わりと自転車飛ばすからね、アハハ」
「あ、あああのう」
「ん?」
「あああ、朝野くんはどんな……バババ、バイトを?」
「あ、うん。献血ルームで働いてる」
「献血ルーム」
「そ」
「りりり、立派だね。献血かぁ……血祭くんだね」
「血祭くん?」
オレは一瞬、聞き間違えかと思って彼女を見た。
すると、神宮寺さんは顔の前で手を高速に振る。
「ち、ちちち、違うの……なんでもないですぅ」
「……う、うん」
どうやら、本当にオレの聞き間違えのようだった。
そうして、オレは「またカレー当番の買い出しの件で連絡するね」といい残し、夜十一時前に神社を後にするのだった。
『今バイト帰りなんだけど』
とつぜん、私のスマホに陽斗くんからラインが来た。
三十分ほど前――。
『学級委員長の仕事を思い出して職員室に行ったんだ』
私がそう陽斗くんにラインを送ってからの、ようやくの反応だった。
てゆうかもう、返信を待ってる間、私は超不安だった。
ドキドキが止まらず、心臓がバクバク音を立てていた。
返信のなかった三十分間が、もう永遠に感じられるぐらい長かった。
だって。
だってね。
私にとっては、家族以外の人との、はじめてのラインのやり取りだったんだもん。
お母さんが時々私にする既読スルーとは、もうわけが違ったの。
正直、もう連絡がないんじゃないかって思ってた。
スマホの電源を切って、一生そのままにしようかとも考えた。
今朝とつぜん消えた理由がなんか言い訳みたいで、そんなラインを送った私はもう……きっとダメなんじゃないかって……私、諦めてたんだ。
それでも、奇跡というのは、とつぜん起きるようだ。
これって、よくいう、あれみたいなことなのかな?
ええと。
なんだっけ。
あ、そう!
ピンチはチャンス?
これがその、ピンチはチャンスってやつ?
とにかく、
「キャアアア」
私は陽斗くんからの返信に浮かれていた。
超がつくほどに。
いや、戸惑いも半分ぐらいはあるんだけど、ね。
そう。
『今から打出小槌神社に寄っていいかな?』
彼は立て続けにこんなラインを送ってきたんだ。
とつぜん、私に会いにやって来るって。
「うそだぁ……」
私は手を団扇みたいにし、火照った顔をあおぎまくる。
こんな返信が来るなんて、やっぱり信じられないよ。
ついさっきまで、私は陽斗くんに嫌われちゃったって、そんなふうに考えていたのに。
ラインなんかこの世から消えてしまえばいいって思ってたのに。
それが、それが……。
私はベッドで正座になる。
もういちどドキドキしながら、じーっとスマホの文面を眺めた。
「今……から?」
陽斗くんが、今から?
やって来るの?
ここへ?
本当?
「ええ!」
やっぱり、なんど読んでもそう書いてある。
爽やかな笑みを浮かべた彼が、うちの鳥居をくぐる姿を想像した瞬間、
「キャアアア――」
と、私はつい歓喜の声を張り上げてしまうのだった。
だが。
「ダメ!」
すぐに口元に手をやって、私は首をブンブン横に振る。
落ち着いて。
落ち着いて、私。
私はドキドキと自室でキョロキョロする。
壁に耳あり障子に目あり、っていうよね。
今の、お母さんに聞かれてないよね?
陽斗くんがここへ来ることがバレたら、絶対マズいよ。
うちのお母さん、分け隔てないっていうか、人類みな兄妹みたいなところがあるから、初対面の人でも好き勝手に話しかけるんだ。
ねえ、ふたりはどんな関係なの?
ねえ、美雨は学校で上手くやってる?
ねえ、陽斗くんってどんな子がタイプなの?
私の頭の中で、お母さんが陽斗くんに質問しまくる映像が浮かんだ。
「……絶対ダメだよぉ」
しかもデリカシーが。
私は唇を噛み考える。
陽斗くんには会いたい。
でも、お母さんにはバレたくない。
なら。
こっそり家を出ちゃうか?
いや、お母さんは地獄耳だから、戸口の開け閉めの音でバレるよぉ……。
じゃ、じゃあ。
境内の掃除をするっていえばいいかな?
今から?
「いや、もう夜十時だよぉ」
私は自分にツッコミを入れる。
じゃあ……ええと、ええと。
「そうだ!」
私はそこでグッドアイデアが閃く。
こんな時間にお母さんに怪しまれずに外に出る簡単な方法を。
そうだよ、境内で飼ってる猫にエサをあげにいけばいいんだ。
「うん、これならいけそう」
陽斗くんも、うちで飼ってる猫に興味をもってたし。
そう考え、私はすぐに行動に出た。
『今から打出小槌神社に寄っていいかな?』
という陽斗くんのラインに、
『うん、いいよ。境内で待ってるね』
と、ようやく一歩前進できた返信を送ったのだ。
送信ボタンを押した瞬間、私の心臓は高鳴った。
ドキドキじゃなく、ドクドクじゃなく、バクバクドキンと心臓が鳴った。
すごい。
すごいすごい。
私に、すごいことが起きてる。
私は、憧れの陽斗くんとラインのやり取りをしたんだ。
しかも、しかも――。
「待ち合わせの連絡までしちゃったぁ……」
少しずつ実感が湧いてきた私は、顔がポーっと熱くなるのを感じた。
「なんか、うそみたいだぁ」
思わずそうつぶやくと、頭がクラクラしてしまった。
その拍子に、
ガンッ。
「いたっ」
脱力して、私は背中の壁に後頭部をぶつけてしまう。
「イテてて……」
うぅ。
しっかりしなきゃ。
これから、陽斗くんが来るんだよ。
私、落ち着いて。
ちゃんと、バイト帰りの彼を迎えてあげないと。
「――ふぅ」
深呼吸をして気持ちを整えると、私は両手で軽く頬を包んだ。
「これはダメだぁ、ダメなやつだぁ」
気をつけないと、ケガしちゃうよぉ。
恋は盲目って、あれって、本当だったんだぁ。
***
オレは夜の国道沿いを自転車で走っていた。
「はぁはぁはぁ」
ママチャリの前かごに通学バッグを入れ、制服姿のオレは立ちこぎで、一秒でもはやく打出小槌神社に行こうとペダルをこぎまくった。
神宮寺さん、怒ってなかったんだ。
オレ、嫌われてなかったんだ。
『うん、いいよ。境内で待ってるね』
そんな彼女からのラインを見て、オレは嬉しさで飛び跳ねそうだった。
結衣さんのいう通り、勢いでラインを送ってみたら、チャンスが来た。
「ありがとう結衣さん! オレ、まだ大丈夫かもです」
オレは、大阪方面へ走る大型トラックと並走しつつ、
「やったーっ」
立ちこぎしながら右手をグッとあげ、大声で叫んだ。
ずっと、彼女に嫌われてしまったって、不安だった。
でも、どうやら、それは杞憂だったようだ。
本当に嫌われていたら、オレはこうして神社へは向かっていなかっただろう。
神宮司さんが会ってくれるってことは、つまりは、そういうこと。
なんだかうそみたいだ。
オレは、神宮司さんと会う約束をしたんだ。
そして、バイト先からはや五分、
「はぁはぁはぁ――神宮寺さん」
オレは阪神打出駅近くにある、打出小槌神社に到着していた。
夏の、少し湿気が混じった夜風を顔に感じつつ、オレは正面入り口に自転車を停める。
そして石造りの鳥居をくぐって、小奇麗な石畳を進んだところで、オレは本殿の賽銭箱の前に彼女を発見。
「はぁはぁはぁ、神宮寺さんっ」
呼ぶと、彼女がハッと顔をあげた。
その場にしゃがみ込む神宮寺さんは、ボルドーのワンピース姿だった。
前髪で隠れて、表情はよく読み取れなかったけど、
「あ、ああああ、朝野……くん」
オレを見た瞬間に、彼女はとっさに立ちあがった。
「神宮寺さん」
「あああ、朝野くん」
そして彼女は、胸の前で小さく手も振ってくれた。
たぶん、いや絶対、口元には笑みがこぼれていた……はず。
とにかく、よかった。
ようやく安心できたオレは、心底ここへ来てよかったと思う。
気がつくとオレは境内を走っていた。
そして。
「はぁはぁ、ごめんね、こんな時間に呼び出しちゃって」
すぐに賽銭箱の前で、オレは彼女に謝った。
「ううん」
「はぁはぁはぁ、なんか……驚かせちゃったよね……はぁはぁはぁ」
「い、いやいやいや、全然そんな」
神宮司さんが小さく肩をすくめる。
「で、でででも……ど、どどど……どうしたのかなって」
「ええっと」
彼女に訊かれ、オレは思わず鼻の頭をかく。
オレは少し迷っていたんだ。
朝から登校に誘ったり、ライン交換を迫ったり、果ては神宮司さんに学校で逃げられ、オレは嫌われてしまったんじゃないかって心配していたこと。
それを正直にいうべきかどうかって……。
だが。
「バイト中にふと思い出したんだ」
「ふ、ふふふ……ふと?」
「そう。今朝ラインを交換したとき、キミのアイコンを見ただろ」
「猫の……」
「うん、それ。神社で飼ってる猫に……会いたいなって思ってさ」
それも本当のことだった。
うそをついたわけじゃない。
オレはバイト中、神宮司さんが神社で飼っている三毛猫のことも考えていた。
常に家には猫がいる環境で育ったオレは、無類の猫好きだったから。
それに、正直にいえば神宮寺さんをまた困らせると思ったんだ。
キミに嫌われたかもって、キミを怒らせたかもって、それを確かめたくって会いに来たんだって――そんなことをいえば、絶対戸惑うよなって。
困るよなって。
いや……。
正直にいえば、神宮寺さんの本音を知る勇気なんて、今のオレにはなかったのかも。
ハッキリと断られたくないから、オレは逃げたんだ。
猫は本当に好きなんだけど……。
すると、神宮寺さんはまた賽銭箱の前でしゃがみ込んで、
「出ておいで、ボッチ」
暗がりにそう声をかけながら、液状のおやつをポケットから一本取りだした。
オレも彼女の隣にしゃがみ込む。
「それ、猫が大好きな『ちゅーる』?」
「あ、う、うん」
訊くと、神宮寺さんの艶やかな黒髪が夜風に揺れた。
「ボッチって、三毛猫の名前?」
「そ、そそそ、そうなんだ……見つけたとき、ひとりぼっちだったから……ボッチって名付けたんだ……ボッチは怖がりで、すすす、すぐに逃げちゃうんだ」
「ボッチー」
オレも暗がりに声をかけるが、ミャアともミーともすんともいわない。
「せせせ、せっかく朝野くんが来てくれたのに……」
「気にしないで。また会いに来るよ」
「あ、う、ううううん」
そこで神宮司さんがゆっくりと立ち上がる。
すると。
「あ、あああの……」
賽銭箱の木枠の上から、そこに乗っている木のトレイを取った。
そこには、はがきサイズの白い封筒が十袋ほど並べられてある。
神宮寺さんはそれをひとつ取って、オレに手渡してくれたんだ。
「こ、こここ、これ……どうぞ」
「これって?」
「お、おおお、お清めとかに使われる粗塩なんだ」
「へえ」
「わ、わわわわりと人気で……す、すすすすぐになくなっちゃうの」
「そうなんだ。ありがとう、すごく嬉しいよ」
「も、ももも、持ってるだけで……そ、そそそその、交通安全祈願に……なるよ」
「交通安全」
オレがふと自転車を止めた正面入り口の方を見ると。
「あ、ああああ、朝野くんが……自転車で来るのが……見えて」
「そっか。オレ、わりと自転車飛ばすからね、アハハ」
「あ、あああのう」
「ん?」
「あああ、朝野くんはどんな……バババ、バイトを?」
「あ、うん。献血ルームで働いてる」
「献血ルーム」
「そ」
「りりり、立派だね。献血かぁ……血祭くんだね」
「血祭くん?」
オレは一瞬、聞き間違えかと思って彼女を見た。
すると、神宮寺さんは顔の前で手を高速に振る。
「ち、ちちち、違うの……なんでもないですぅ」
「……う、うん」
どうやら、本当にオレの聞き間違えのようだった。
そうして、オレは「またカレー当番の買い出しの件で連絡するね」といい残し、夜十一時前に神社を後にするのだった。