現れたのは聖竜様と予想外の溺愛でした
「わっ」

莉亜は飛び退いた。
露わになった鱗が光ったのだ。
太陽光の反射とは違う。
鱗自体がぼうと──まるで、蛍光塗料でも塗ってあったかのように、沈んだ銀色に光りだした。

「えっ、や、なに」

たじろいだ莉亜は箒を握りしめて鱗を見つめる。そろそろと距離を取り、どうしたものか考えあぐねている莉亜の耳に、後ろからくすくすとからかうような笑い声が聞こえてきた。

「悪さはしない、安心しろ」

はっと顔を上げた莉亜は辺りを見回し、椅子に釘付けになった。
やけに大きな、凝った彫刻のなされた椅子。否、座と呼ぶほうが相応しいのかもしれない。
空の玉座に──男がひとり、腰掛けていた。

肘置きをゆったりと使い、姿勢よく座る彼だが、どうにもその姿は霧に覆われているように輪郭がはっきりしない。
しかし、それでも彼が並外れた美貌の持ち主であることは莉亜にも見てとれた。
襟元でゆるく束ねられた鈍色の長髪。
長い前髪は片方の瞳を完全に隠しており、露わになっている片割れは眩しそうに細められて色は窺えない。かすかに口角の上がった口元も白い肌と同じく色が抜け落ちていた。
不躾なほどにまじまじと見つめる莉亜に、男は咎めることもせず、座ったまま呟いた。
低くなりきれないテノールが中性的な美貌をより引き立たせる。

「驚いたな」
「……え」

それは莉亜のセリフでもあった。
ひとりきりの部屋に突然男が現れたのだ。この上なく驚いている。しかし、泣いたり喚いたりするほどの気力や体力は奪われていた。
だから男にしてみれば、そうした莉亜の反応も含めて驚きの対象だったのかもしれない。

「治そうと──してくれているのか」
「……ええ、直すように──と、言われまして」
「そう」

頷いた割にどうにも腑に落ちない様子ではあったが、彼は視線を窓の外に遣り、それから部屋を見渡す。

「変わらないな」
「え?」
「いや、なんでもない。それより、ずっとここに閉じ込められているのか」
「ええと、昨日からです」
「昨日?」

男の眉間に皺が寄った。機嫌を損ねたようで莉亜はびくりと縮こまる。

「それにしては“浄め”が進みすぎだろう」
「そ、そう言われましても……昨日、ここに連れてこられて、一晩中月明かりの中で作業していたので」

浄め、とは修復作業のことを指すのだろうか。
そう推測して莉亜は答えを返す。
単純作業を厭わず没頭できる莉亜だが、流石に何日も徹夜するほどには集中力は続かない。
月の光が差し込む位置に合わせて作業する位置を変えながらの夜だったので、ようやく朝日で辺りがはっきり見えてきた頃のことは覚えている。
そう伝えれば、彼は莉亜を手招きした。
不穏な雰囲気を纏っているわけではないものの、初対面の男性にみだりに近づくのも躊躇われていると、彼は「まだ触れられはしないから安心しろ。顔色を見るだけだ」と変わらぬ表情で言って莉亜を招いた。
そろそろと近づく。
窓辺からの光によって、逆光となった彼の表情は莉亜からよく見えない。
腰掛ける彼と視線を合わせたほうがいいのかと膝を折りかけた時、そのままでいろと制された。

「床が埃まみれだ。汚れる」

マスク代わりの布を外すように言われて従う。言葉通り、触れるつもりはないようだった。
真珠色のまなざしを受けて莉亜は居心地悪そうに視線をあちこちにさ迷わせたが、男は特に何も言わなかった。

「痛むところはあるか」

突然話しかけられて面食らう。
莉亜が答えずにいると、悪いところがあるのを隠していると見たのか「正直に言え」と釘を刺された。

「今の所、特には……あ」
「何かあるのか」

瞳に力が込められる。
隠したところで始まらないと、莉亜は彼の輪郭が朧げに見えると率直に伝えた。

「ああ、それはそなたの目が正しい。気にするな。しかしどうやら本当に……」

そこで言葉を切った男はベッドに目を遣る。シーツが裂かれて無残な有様だ。

「そなた、もう少し頑張れるか」
「え?」
「そうだな……この鱗から少し右側にたてがみがある。それを見えるようにしろ」
「え……?」

この泥だらけな壁の「少し右」にあるものを的確に言い当てられて、莉亜は半信半疑で作業に戻る。先程までと同じ作業なのに、見ているものがいるというだけで、どうにもそわそわと落ち着かなかった。

濡らした雑巾を壁に押しつけ埃が立たぬように拭い、箒で砂を掃き清め、柄で詰まった泥を削り取る。
マスク代わりの布を持ち上げてふうと表面から汚れを吹くと、確かにたてがみらしき曲線の輪郭が見えてきた。
しかもそれは鱗と同じように光っている。その色は鈍色に光る鱗の近くだというのに、色はがらりと変わり青味がかかっていて、壁画の織り成すグラデーションに莉亜は感嘆の声を上げた。

「──良し。そこで止めろ」

莉亜が目を丸くしていることなど気にもとめず、男は作業を止めさせた。

「少し休め。夜を徹しての浄めではもう限界だ」

そうはっきりと口にされ、莉亜の全身がずんと重くなる。眠気か、疲労か。はたまた緊張の糸が切れたか。
昨日からのめまぐるしい現実に、頭の芯がハッカでも嗅がされたように冴え冴えしていたが、男のひと言は莉亜自身が意識していなかった莉亜の体調をはっきりと自覚させた。

「で、でも、寝るにはこの、ベッドは、少し──その、汚いから、せめて掃除を」

毛布代わりに綿埃と泥がこんもり積もったベッドで眠れるほど無神経ではない。
何度雑巾を洗う羽目になろうが、眠る場所くらいは最低限清潔にしておきたかった。

「──だから、限界だと言っているのが聞こえないのか?」

噛んで含めるような言葉が届いた途端、莉亜の足から力が抜けた。横たわることに使う筋肉すら萎えたような倦怠感に莉亜は驚きを通り越して恐怖を覚える。

「あ……?」

へたりこんだ莉亜を見つめる男は微動だにしない。
もしや、これも司祭達の罠だったのか──

意識が遠のく直前に、男の爪先がひどく鋭く見えた。

「……驚いたな、本物、か」

くずおれた莉亜を見下ろす男は、腰掛けたままかぶりを振る。先程よりも青味を帯びた鈍色の髪が、さらさらと星のきらめきのような音を立てた。

「待っていた。久遠の責め苦も、そなたが来ると信じていたからこそ耐えられた。誓いは、祈りは、願いは──報いられよう」

莉亜の体がなめらかな皮のようなもので覆われる。倒れた時に髪や体に付着した汚れが拭い去られていく。
埃まみれの床が、ざわりと音を立てて唸った。
< 7 / 16 >

この作品をシェア

pagetop