八月の蛍、あの夏の歌

 大事件。緊急事態。こんな風に言えばテレビで流れている清純派女優の熱愛報道より、僕にとってとんでもない事が起きたって伝わるかな。まぁ伝わった所で何がどう変わるって訳じゃないんだけど。
 事の発端は夕ご飯を食べている時の父さんの一言だった。

「蛍。申し訳ないんだが来月に引っ越す事になった」

 唐揚げを持ち上げた箸が止まった。開いたまま塞がらない口で正面の父さんに顔を起こすと、父さんは僕に目を合わせる事無く黙々と食事を続けていた。
 大人の事情。
 すまない。
 お前にも迷惑かける。
 すまない。
 父さんは合間に「すまない」を何度も挟みながら、僕らの置かれた状況について説明した。
 要は転勤が決まって、何とかっていう村に引っ越さなきゃならないって事。頭の中は真っ白だったけど、えらく回りくどく言う父さんの言葉を要約するとこんな感じ。まぁ中学二年生の息子を一人残して単身赴任なんて無理な話ってわかっているし、大体バツが悪そうに一回も僕と目を合わせる事無く話す父さんに、駄々なんてこねられる筈が無い。これでも割と孝行息子でやってきているんだから。だから口には出さずに心の中で問いかける。

 ————父さん。それ、サセンってやつ?



 それから僕の周りは少しずつ変わっていった。家の物はどんどん片付けられていくし、自分の部屋も段ボールが日に日に増えていく。荷造りをする度に溜め息をついているのは内緒の話だ。あの時は素直に納得したフリをしたけど、正直全然納得いってない。
 何だよ『村』って。それって田舎って事でしょ? ダサ過ぎ。僕、虫大嫌いなのに。
 父さんもダサ過ぎ。サセンって何だよ。そんなにダメダメだったの? 家ではそんな風に見えなかったのに。ガッカリだよ全く。
 なんて心の中で文句を言ってもどうにもならないから本当にイヤになる。大体、都会暮らしが染み付いちゃっている僕が田舎でホントにやっていけるのかな。正直、不安でいっぱいだよ。でも、それを口に出すと父さんもウザイいくらいに気にするから、これらの愚痴は親友のユーヘイにしかこぼせない。
 ユーヘイは僕が転校すると浜野先生が朝のHRで告げたその日から、僕との帰り道をわざと遠回りする様になった。思い出話で笑い合ったり懐かしんだり、いつも通りの話でもいつも以上に笑って、別れ道で振る手はいつも以上に寂しかった。
 こういう状況になってみると何気ない時間が何よりも大切だったんだって思えて来る。まるで合唱曲の歌詞みたいでちょっと恥ずかしいけど、本気で思ってる。
 それと、実際に体験して分かった事がある。
 大人の引っ越しと子供の引っ越しは重大さが違う。
 転勤と転校って字にしたら似ているけど全然違う。絶対に違う。
 だって担任の浜野先生が朝のHRで僕の転校を告げた時から、クラス中が僕中心で動いているんだもの。やれお別れ会の準備とか、体育でも僕のリクエストでキックベースをやったりとか、遊びに誘われるのも毎日だしみんな何かと別れを惜しんで僕を放っとかない。でも、父さんは至っていつも通りだ。何かやったりするのと聞いてみたら送別会ってのがあるだけだってさ。後はヒキツギ? とにかく仕事が大変みたい。
 だから会社ってきっと学校とは全然違うものなんだろう。だって仕事だし。大人だしね。だからいちいちお別れに特別な感じも必要ないんだ。きっと。
 でも、子供は違う。突然告げられた友達への別れにみんなが協力して毎日を思い出に変えようとする。他にやる事がないって言ったらそれまでだけど、みんな僕を最優先事項にして毎日を過ごすんだ。
 そういや、これがキッカケで女子と男子がいつもより仲良くなった気がする。放課後に男女が一緒に遊ぶなんて今までほとんど無かったのに、今ではそんなに珍しくない。
 全くズルいなぁ。これじゃ余計に転校なんてしたくなくなるじゃないか。きっと僕が転校した後も縮んだ距離は変わらないんだろうな。距離が離れるのは僕だけ……やっぱり転勤無くなりましたってならないかな。ならないよな。


 お別れ会は僕の引っ越し前日に午後の授業の時間を使って行われた。
 みんなの出し物は思った以上に気合いが入っていて、特に女子の佐々木達が踊ったダンスなんかは凄く本格的だった。
 そしてハイライトは僕の手紙。思い出話と感謝の言葉で綴った、ありきたりな物だったけど、ユーヘイを筆頭に女子も含めて何人か泣いていたから大成功かな。僕は終始笑っていたけどね。家に帰って、誰もいないリビングでようやく実感が湧いて来て、ちょっとだけ泣いてしまったのは僕だけの秘密にしておこうと思う。



「それじゃ」
「おう。クラスの珍事件とかいっぱいメールするわ」
「こっちも田舎の事件あったら直ぐメールするよ」
「田舎の事件ってすんげーでかい大根が穫れたとかか?」
「もちろん。ネギでもジャガイモでもトマトでも何でもメールするよ」
「うわー! うぜー!」
 出発の朝。わざわざ見送りに来てくれたユーヘイと最後の笑い話を終えて別れの握手を交わした。父さんが待つ車に乗り込んで町を去る時、一気にここが別の町に見えた。僕はそんな別の何かに変わってしまった流れていく風景の中、百メートル先の角を曲がるまでずっと手を振っていたユーヘイに小さく手を振り返していた。
「良い友達持ったな」
「……まぁね」
 角を曲がった時、僕に言った父さんの言葉が嬉しくて少し恥ずかしかった。
 新しい家まで高速道路を使って七時間かかった。最初は良かったけど、一時間もしたらずっと同じ風景が続いて退屈だった。父さんともそこまで会話も無いし、ただジッと車の中で行きたくもない村に着くのを待たなければならない。だから途中何度か休憩で寄ったサービスエリアもあんまり楽しめなかった。
 そうした望まないロングドライブの末に辿り着いた場所はやっぱり想像通りの田舎で、もちろん期待なんかしていなかったけど、ここまでイメージ通りだとは思いもしなかった。
「やっぱり近くにコンビニとかないんだね」
「ん? さっき来た道に無かったか?」
 父さんは三十分も前に通り過ぎたコンビニの事を言っているのか僕にはわからなかったけど、見ていた限りではそれ以降コンビニは無かったはず。車で三十分の距離を近くって呼んでしまう父さんはもう立派な田舎者になっているみたいだったから、僕はもうそれ以上何も言わなかった。
「よし着いた。蛍。ここが今日から俺たちが住む家だ」
 車を止めてお父さんが笑顔を向けてくる。その笑顔越しに見えた家はそれなりに大きかった。でも、無駄に広い庭に石の塀も汚くボロボロで、おまけに家は木造の一階階建て。更に言えば、その遥か向こう側には山。向かいには田んぼ。道は舗装なんかされていない土むき出しで雑草も多い。ちなみに隣の家まで三十メートルくらいある気がする。なんだか空が近い。と言うより広かった。
「こういうの平屋って言うんでしょ?」
 車のトランクから荷物を引っ張り出して家へと向かう父さんは僕の言葉に振り向いた。
「そう。良く知ってるな。何だかロマンを感じないか」
 父さんは何だか楽しそうだった。こういうのが好きだったのだろうか。悪いけど、僕にはそのロマンが全く感じられない。むしろ、これでもかってくらいの田舎の情景を見て既に嫌気がさしていたくらいだ。
『虫いっぱいいそうだな』
 僕の感想はこれだけ。父さんのようには笑えない。絶対に。
 家の中には既に送った荷物が届いていて、僕と父さんは手分けしながら中身を段ボールから出して運んでいった。二人暮らしでもそれなりに家電や家財もあって、まだ完全とは言えないけど、何とか一通り片付け終わった時にはもうとっくに日が傾いていた。
「よし、飯にするか」
 一仕事終えたお父さんは首にかけたタオルで汗を拭きながら揚々と台所へ向かって行く。僕は居間として使う部屋に座り込んでその背中を見送った。返事をしない僕にお父さんは振り返る事も無く、程なくしてシンクに水が落ちる音が聞こえてきた。
 改めて部屋を見回してみると、想像通りの内観が僕の心を沈ませる。畳一畳、柱一本とっても全てが新しくない。一体、どれだけ昔からこの家はあるのだろうか。例え歴史があり、建造物としての価値が高かったとしても、住む家としての価値はゼロに等しいと思う。その価値と言うのも人によりけりなんだろうけど、生憎と都会で生まれた僕にはこんな古くさい雰囲気にノスタルジーは感じなかった。
 僕は暗く沈んだ気持ちを回復させられる事柄はないかと家の中をあっちこっちとウロウロしてみたけど、それは逆効果だった。何だかどこに居ても居心地が悪く感じてしまう。色んな部屋で座ってみたり寝転んでみたりを試した結果、結局居間に戻ってきてしまった。理由はないけど何となくここが一番居やすい気がして、だけどやっぱり居心地悪いまま、畳の上で後ろ手をついて足を投げ出し、夕食の準備をする父さんが出す音を聞いていた。
 窓の向こうに伸びていく奥行き深い景色は少しずつオレンジから紫がかっていく。
 少しずつ暗くなるに連れて田んぼと道や山と空の境界が曖昧になっていく。光源が一つしか無いその景色は、周りに街灯が全然ないという事を僕に教えてくれた。
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