八月の蛍、あの夏の歌
10
「————指揮者は、野本君にお願いするわ」
青天の霹靂。
パート分けの発表で名前を呼ばれなかったカズは最後の最後で指揮者として名前を呼ばれた。その手があったか。
指揮者としてカズの名前が呼ばれた時の盛大な拍手は、きっとカズではなく先生に向けられたものだ。そんな事には全く気づかず、間抜け面をした野生児は顔を赤らめて恥ずかしそうに頭を掻きながら、未だ鳴り止まぬ割れんばかりの拍手の中、パート毎に分かれて並んだみんなの前に立った。
「よし、以上で発表はおしまい。今日から練習始めるわよ!」
はい! と大きな返事が揃って音楽室に響く。先生の采配は見事としか言えなかった。クラスの士気はこれで一気に高まったはず。でも、僕には一つ疑問が残っていた。
テストで歌っていない灰坂を先生はどう判断してソプラノに決めたのだろう。混声四部合唱の曲だから、パートは綺麗に五人ずつに分けられている。これは非常に微妙な人数で、一人歌わないのがどれほどパートに影響を及ぼすのかまるでわからない。灰坂が歌わないと仮定して、声量のバランスを取ったのだろうか。灰坂がみんなと混ざってなら歌うかも知れないのに? いや、それは無いか。恐らく無い。でも、それを先生が決めつけてしまうのは教師としてどうなのだろう。別に追求する気もないけど、僕はこのモヤモヤした気持ちのせいで元々そんなに無かったやる気が更に失せてしまった。
「はい、それでは始めましょ!」
先生は僕をピアノへ手招きする。
「え?」
「え? じゃないわよ朝丘君。あなた伴奏者よ?」
先生は「当たり前でしょ」と言いたげな表情で更に両手で僕を手招いた。
そうか。きっと先生は歌唱指導に早く入りたいんだ。
しかし、いくらなんでも昨日渡されたばっかりの曲を弾けるわけが無い。ましてや、昨日はカズとユキと結構遅くまで遊んでしまったからビデオテープも楽譜も鞄から取り出す事無く、僕は昨日のままの鞄で登校していた。
「すいません。まだ弾けません。というよりみんなもまだ歌えないでしょう?」
一応、自分が悪いという方向に持っていったがけど、悔しいので少しだけ反撃してみる。
「何言ってるの! 毎年聞いてるんだから歌えるわよ! 去年なんか夏中、ずっと練習の音が学校に響いてるのを聞いてたんだから」
ねぇ? と先生が微笑みながらみんなに振り向くと、ほぼ全員が頷いた。カズだけが頷かなかった。
「ごめんなさい。次には弾ける様にしてきますから今日は先生お願いします」
負けを認めた僕は席から立ち上がって、深々と頭を下げた。
「もちろんいいわよ。朝丘君のピアノ楽しみにしているわね。じゃあちょっと歌ってみましょうか」
僕は先生の「楽しみにしている」と言う言葉にゾッとしながら着席して、対面に整列するみんなを見た。前奏が始まって、歌が入る。
ホントだ。まだまだ色んな所が雑で時折ズレるけど、大体歌えている気がする。これならちょっと練習するだけで本番には確実に間に合うだろう。でも、ユキの言うようにみんな少しでも完成度を上げる為にいっぱい練習したがるんだろうな。って事は僕もたくさんピアノ弾かされるんだろうな。なんて考えると今から憂鬱だった。
僕は列から視線をずらす。そしたら、歌うみんなとピアノに挟まれて何をしたら良いのか分からずモジモジしているカズが目に入って思わず吹き出してしまった。合唱中だったからバレずにすんだけど、本番こいつの指揮を見て、みんなまともに歌えるのか本気で心配になった。
……何となく灰坂に視線を移してみる。やっぱり口は閉じたままだった。
ーーーーこの合唱、大丈夫なのかな?
放課後の合唱練習も終わって、学校からの帰り道。僕は珍しく一人で歩いていた。恐らく、当分はこうやって一人で帰る事になるだろう。
ついさっきの出来事だ。放課後、練習が終わってみんなが教室で帰る仕度をしていると、カズが宮沢先生に呼び出された。また何かイタズラしたのかと思ったら、呼ばれた場所は職員室ではなく音楽室だったので、どうやら違うらしい。
「すぐ終わるんなら待ってようか?」
昨日、カズとユキが僕を待っていてくれたので、一応気遣いで言ってみる。
「うん。ちょっと待っててくれよ。別に何もしてない筈なんだけどな。あれー?」
予想通りと言えば予想通りだけど、カズは遠慮なんか一切しない。頭をポリポリ掻きながら教室を後にする背中を見送って、僕は放課後の教室に居残った。
僕は入っていないけど、この学校にも一応部活動は存在する。規模は小さいけど。カズもユキも入っていないけど、スギは軟式野球部に入っていた。
校庭から野球部と陸上部の声が聞こえてくる。そういえば、こうやって放課後に残るのも初めてだ。
窓を開けると風がサッと廊下に抜けていった。バットの音、掛け声、土を蹴って走る音までも聞こえてくる。その姿も音も真剣そのもので、何だか、ザ青春って感じだった。
「わりぃ! ホタル先帰ってて!」
程なくして、カズが息を切らしながら教室に戻って来た。勢い良く戸を開けたその手には指揮棒が握られていた。
「あの、それ」
「おう! 今日から秘密の特訓だってよ! かっこいいだろ!」
カズは指揮棒を剣のように持ち替え、振り回した。どうやら指揮棒がとても気に入ったようだ。
「そういう事だから! 悪いな! これからはしばらく一人で帰ってくれ!」
カズは手を振りながらまた教室から走り去っていった。僕は振り返した手で窓を閉める。
先生も、カズが不安要素なんだな。
カズ、頑張れ。
青天の霹靂。
パート分けの発表で名前を呼ばれなかったカズは最後の最後で指揮者として名前を呼ばれた。その手があったか。
指揮者としてカズの名前が呼ばれた時の盛大な拍手は、きっとカズではなく先生に向けられたものだ。そんな事には全く気づかず、間抜け面をした野生児は顔を赤らめて恥ずかしそうに頭を掻きながら、未だ鳴り止まぬ割れんばかりの拍手の中、パート毎に分かれて並んだみんなの前に立った。
「よし、以上で発表はおしまい。今日から練習始めるわよ!」
はい! と大きな返事が揃って音楽室に響く。先生の采配は見事としか言えなかった。クラスの士気はこれで一気に高まったはず。でも、僕には一つ疑問が残っていた。
テストで歌っていない灰坂を先生はどう判断してソプラノに決めたのだろう。混声四部合唱の曲だから、パートは綺麗に五人ずつに分けられている。これは非常に微妙な人数で、一人歌わないのがどれほどパートに影響を及ぼすのかまるでわからない。灰坂が歌わないと仮定して、声量のバランスを取ったのだろうか。灰坂がみんなと混ざってなら歌うかも知れないのに? いや、それは無いか。恐らく無い。でも、それを先生が決めつけてしまうのは教師としてどうなのだろう。別に追求する気もないけど、僕はこのモヤモヤした気持ちのせいで元々そんなに無かったやる気が更に失せてしまった。
「はい、それでは始めましょ!」
先生は僕をピアノへ手招きする。
「え?」
「え? じゃないわよ朝丘君。あなた伴奏者よ?」
先生は「当たり前でしょ」と言いたげな表情で更に両手で僕を手招いた。
そうか。きっと先生は歌唱指導に早く入りたいんだ。
しかし、いくらなんでも昨日渡されたばっかりの曲を弾けるわけが無い。ましてや、昨日はカズとユキと結構遅くまで遊んでしまったからビデオテープも楽譜も鞄から取り出す事無く、僕は昨日のままの鞄で登校していた。
「すいません。まだ弾けません。というよりみんなもまだ歌えないでしょう?」
一応、自分が悪いという方向に持っていったがけど、悔しいので少しだけ反撃してみる。
「何言ってるの! 毎年聞いてるんだから歌えるわよ! 去年なんか夏中、ずっと練習の音が学校に響いてるのを聞いてたんだから」
ねぇ? と先生が微笑みながらみんなに振り向くと、ほぼ全員が頷いた。カズだけが頷かなかった。
「ごめんなさい。次には弾ける様にしてきますから今日は先生お願いします」
負けを認めた僕は席から立ち上がって、深々と頭を下げた。
「もちろんいいわよ。朝丘君のピアノ楽しみにしているわね。じゃあちょっと歌ってみましょうか」
僕は先生の「楽しみにしている」と言う言葉にゾッとしながら着席して、対面に整列するみんなを見た。前奏が始まって、歌が入る。
ホントだ。まだまだ色んな所が雑で時折ズレるけど、大体歌えている気がする。これならちょっと練習するだけで本番には確実に間に合うだろう。でも、ユキの言うようにみんな少しでも完成度を上げる為にいっぱい練習したがるんだろうな。って事は僕もたくさんピアノ弾かされるんだろうな。なんて考えると今から憂鬱だった。
僕は列から視線をずらす。そしたら、歌うみんなとピアノに挟まれて何をしたら良いのか分からずモジモジしているカズが目に入って思わず吹き出してしまった。合唱中だったからバレずにすんだけど、本番こいつの指揮を見て、みんなまともに歌えるのか本気で心配になった。
……何となく灰坂に視線を移してみる。やっぱり口は閉じたままだった。
ーーーーこの合唱、大丈夫なのかな?
放課後の合唱練習も終わって、学校からの帰り道。僕は珍しく一人で歩いていた。恐らく、当分はこうやって一人で帰る事になるだろう。
ついさっきの出来事だ。放課後、練習が終わってみんなが教室で帰る仕度をしていると、カズが宮沢先生に呼び出された。また何かイタズラしたのかと思ったら、呼ばれた場所は職員室ではなく音楽室だったので、どうやら違うらしい。
「すぐ終わるんなら待ってようか?」
昨日、カズとユキが僕を待っていてくれたので、一応気遣いで言ってみる。
「うん。ちょっと待っててくれよ。別に何もしてない筈なんだけどな。あれー?」
予想通りと言えば予想通りだけど、カズは遠慮なんか一切しない。頭をポリポリ掻きながら教室を後にする背中を見送って、僕は放課後の教室に居残った。
僕は入っていないけど、この学校にも一応部活動は存在する。規模は小さいけど。カズもユキも入っていないけど、スギは軟式野球部に入っていた。
校庭から野球部と陸上部の声が聞こえてくる。そういえば、こうやって放課後に残るのも初めてだ。
窓を開けると風がサッと廊下に抜けていった。バットの音、掛け声、土を蹴って走る音までも聞こえてくる。その姿も音も真剣そのもので、何だか、ザ青春って感じだった。
「わりぃ! ホタル先帰ってて!」
程なくして、カズが息を切らしながら教室に戻って来た。勢い良く戸を開けたその手には指揮棒が握られていた。
「あの、それ」
「おう! 今日から秘密の特訓だってよ! かっこいいだろ!」
カズは指揮棒を剣のように持ち替え、振り回した。どうやら指揮棒がとても気に入ったようだ。
「そういう事だから! 悪いな! これからはしばらく一人で帰ってくれ!」
カズは手を振りながらまた教室から走り去っていった。僕は振り返した手で窓を閉める。
先生も、カズが不安要素なんだな。
カズ、頑張れ。