八月の蛍、あの夏の歌

11

 僕は家に着くと早々に父さんがまだ帰ってきていないのを確かめ、鞄からビデオテープを取り出した。でも、居間のテレビの前に屈んで僕はようやく気づいた。
「そっか……」
 家のデッキはDVDデッキだった。僕の家にはビデオテープを再生する機器が無い。と言うより今時、ビデオデッキを置いている家の方が珍しい気もする。きっとこの村ではまだスタンダードなんだろうけど。
 とやかく言っても仕方ないので、僕はビデオテープをしまって、自分の部屋に入った。
 鞄から楽譜を取り出して、着替えもせずにピアノの蓋を開ける。椅子に座り、広げた楽譜を追いながら先生の演奏を思い出した。
 大きく息を吸って、鍵盤に手を置き、踊るように並ぶ音符を「音」にする。
 僕の指がまるでずっと覚えていたかのように、先生と同じメロディーを奏でていく。
 そして今日のみんなの歌を思い出し、頭の中で合わせる様に演奏する。カズの姿を思い出し、少し吹き出してしまったが演奏は止まらない。僕の指はブランクを感じさせないくらいに、意外な程しっかり動いてくれた。
「————よし、楽譜見ながらなら、もう弾けるな。って言うか、予想以上に簡単だったなぁ。いくらブランクあってもこれくらい弾けなきゃ……流石にねぇ」
 楽譜を捲ってブツブツ文句を呟いていたけど、正直僕は少し嬉しかった。運指が思ったより錆び付いていないとかブランクどうこうではなく、弾いている時も弾き終わった後も不思議と気持ちが晴れやかだったからだ。
 ピアノを弾いてこんな気持ちになったのは久しぶりだった。何だか、もう少し弾きたい気分だったけれど、これ以上弾いて変にまた前の気持ちを思い出してしまったら、それこそピアノを弾く気がゼロになってしまう気がしたので、僕はそっと鍵盤蓋を閉じた。
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