八月の蛍、あの夏の歌
15
それからクラスは何だか変な空気になってしまった。
ギスギスを引きずっていて、女子と男子の会話が明らかに減っていた。男子は徐々にパート練習をサボりだし、女子はまだサボりこそいないものの、熱はあまり感じられない。完全に惰性だった。
それに、灰坂はあれからも変わらず、決して歌おうとする事はなかった。
僕は自分でもビックリしているけれど、この状況を何とかしなくてはと考えてしまっている。
まるで乗り気じゃなかったくせに、どうしてこんな気持ちになっているのか自分でも分からないけれど、日を追う事にどんどん悪くなっていく歌も、険悪なみんなの雰囲気も、何より灰坂の事を、どうしてもそのまま放っておく気になれなかった。
「————やっぱり灰坂が問題だよなぁ……でも、どうやって……」
帰り道。すっかり一人で帰るのに慣れた僕は、頭の中の言葉をブツブツと口に出しながらまだ見付かっていない解決策を必死に探していた。
「……あれ? こっちは確か」
頭をフル回転させながら夢中で歩いていたら、どうやら僕は道を間違えてしまったらしい。と言っても、知らない道に出たわけではない。立ち止まった横にはユキの隠れ夜景スポットである、あの神社の石段が上へと伸びていた。
「せっかくだし……ちょっと寄って行こうかな」
七月も中頃になると日は長く、夕方の時間でも辺りはまだまだ明るかった。
明るいうちに見てみたらどんな風景が見れるかと気になったのもあるし、願掛けでもしてみるかと安易な考えが浮かんで、僕は石段を上った。
「ん?」
石段をあと数段で上り終えるぐらいまで来て、僕はふと立ち止まった。
耳を澄ます。
何か聞こえる。声? 歌? 微かに届くそれに耳を澄ませながら、僕はまるでその音に引き寄せられる様に石段をまた上り始める。
その音が人の声、そして歌だとわかったのは石段を上り終えて鳥居をくぐった時だった。そこまで大きく無い神社だから鳥居から社殿までの距離は十メートルくらいしかない。
しかし、鳥居の下から見回す限りでは、その声の主を見つける事が出来なかった。
僕は高台から見える景色に目もくれず、いまだ聞こえ続ける歌の方へと歩いていく。
歌は社殿の裏側から聞こえていた。そばまで来ると、大分はっきり聞こえてくる。凄く澄んだソプラノボイスだ。基礎が出来ているのか響きが凄く綺麗で、その伸びやかな歌声に思わず聞き惚れてしまいそうになる。
……ただ、えらく調子っぱずれだった。つまりは音痴。おかげで気づくのにかなり時間が掛かったけれど、これはお祭りで歌う合唱曲のソプラノパートだ。でも二年のソプラノにこんな音痴はいない。じゃあ一体誰が?
僕はそのあまりに音痴で綺麗な声の主がどんどん気になってきて好奇心を抑え切れず、バレない様にこっそり盗み見る事にした。
「どんな人が歌ってるんだろう? ……あっ!」
正体を見た僕は思わず声を上げてしまった。瞬間、反射的に手で口を塞いで素早く身を隠したけど、やっぱり気付かれてしまったのか、歌は止まってしまった。
しかし、彼女がこちらに来る気配は無い。もしかして様子をうかがっているのだろうか。秘密の特訓がバレて、動揺しているのだろうか。
いずれにせよ今なら、このまま逃げられそうだ……けど、僕はそうしなかった。
高鳴る心臓が治まるのを待ってから、覚悟を決めて社殿の裏に飛び出す。
「ごめん! 盗み聞きするつもりじゃなかったんだ」
僕の視線の先に居た灰坂は、ソプラノ用の楽譜を持った手をダランと下げて俯いていた。
「あ、あのさ。そんな綺麗な歌声してるんだから歌えば、良いのに」
灰坂はこちらを見ようともしない。最初にこっちを見て僕を確認してから、ずっと俯いたままだった。
「あー……その、何となくわかるよ灰坂の気持ち。俺も転校して来たばっかだからさ……」
一人で喋り続けて、これじゃあの時の女子と一緒だと気づく。灰坂はまだ何も言ってないのに、ころころ話題を変えては灰坂も何から答えていいか混乱してしまうだろう。
そう。僕は本当に何となく分かっているんだ。灰坂が喋らない理由を。
そして歌わない理由は今、ようやく分かった。
……沈黙が続く。ようやく日は傾き始め、空は少しずつオレンジ色に染まっていった。
僕たちは一歩も動かず、少しずつ影を伸ばしていくだけだった。
「あの……」
辛抱強く待っていると、ようやく灰坂が口を開いた。空はオレンジから赤を帯びて来ている。
「ん? なに?」
初めて灰坂の声を聞いた僕は、何も気にしていない素振りで明るく返事をする。灰坂は顔を上げて、体ごとこちらに向き直った。
「あの……み、みんなには内緒に……」
灰坂は小刻みに震えながら必死に声を出している。震える両手がスカートをギュッと掴むと、手に持っていた楽譜が地面に落ちた。
「こ、この事! みんなには……内緒にして、下さい……」
お願いしようとして、途中で諦める。そんな尻すぼみな喋り方だった。
「もちろん。そのつもりだよ」
僕は努めて軽く返事をする。灰坂の言葉を待っていた沈黙の間に、僕は良い考えを思いついていた。それが成功すればきっと問題は全て解決する筈だ。
だから、このチャンスは逃せない。
「だからさ。まず、落ち着いてくれないかな。僕は別に敵じゃないし、別に灰坂を嫌っているわけでもないし。まぁ、好きってわけでもないけど」
灰坂は真っ直ぐ見つめたまま、黙っている。震えは少し治まったみたいだ。
「とりあえず、話を聞いてくれないかな? もちろん時間はとらせないし、答えは首を振って示してくれれば良い。オーケー?」
僕は敵意が無いという意思を両手を上げて大げさにアピールした。少し嘘くさかったかも知れないけれど、こうする他に何も思いつかなかった。
灰坂は少し間をあけて、僕の言葉通り、コクンと首を縦に振って了解を示した。
「ありがとう。でさ、きっとこの前の事……いや、転校して来てから色々気にしていると思うんだけど。灰坂はどうにも出来ない自分に少し腹が立っていたりするんじゃないかな?」
灰坂は首を動かさず、僕を見ているだけ。僕は視線を外さず、笑顔を作ってなるべく傷つけない様に灰坂の心を誘導する。
「まぁいいや。まぁ大方、前の学校であった事が原因なんでしょ? 何となく分かるよ。人が多いと色々あるからさ。色んな人が居るから。でも、こっちの人。つまり今のクラスにはそういう人が居ない。それはわかるよね?」
灰坂は唇を結んで、ゆっくり頷いた。よし。良い流れだ。
「でも、どうしたらいいか分からない。自分でも自分が分からない。信じるのが恐い。だから距離をとるしか無い。でもそれじゃ何も変わらない。むしろ状況は悪くなっていく。灰坂。それはもうわかってるんでしょ?」
僕が勝手に代弁するように言うと、灰坂はしばしの沈黙の後、また頷いた。
やっぱりそうか。
自分でも何だか似合わない事をしていると思うけど、恥ずかしがってもいられない。
それに、ここまでくればあとはもう一押しだ。
「なら、僕の作戦に乗らないか? 良い解決方法があるんだ」
灰坂は即座に首を横に振る。でも、これは問題ない。
「まぁ聞いてよ。何も灰坂の為ってわけじゃないんだ。これは言ってしまえば僕のため。たまたま灰坂の問題を解決するのが一番手っ取り早いってだけなんだ。でも一つ約束する。僕は灰坂に嘘をつかない。だから灰坂、僕の為に協力してくれないかな。これは友達になろうとか灰坂を助けようとかそんな良いものじゃなくて、なんて言うのかな……そう! 利害一致の関係だ。お互いの『得』の為に動くんだ。どうかな?」
灰坂は顎を少し上げて空を見上げた。どうやら悩んでいるみたいだ。
僕としてはもう少し強引な手段もあったけれど、出来れば灰坂が自主的に動いてくれるのが望ましい。その方が後々を考えて効率が良いからだ。
僕はグッと唾を飲み込んで、灰坂の返事を待った。
「————作戦って具体的に……何するの?」
灰坂はまだ答えを出せないらしく、僕に視線を戻して質問して来た。これも当然と言えば当然、問題ない。
僕はわざとらしく笑って答えた。
「簡単だよ! 秘密の特訓!」
「……具体的じゃない」
「ははは! 喋る様になってきたね。いいよ! どんどん来て! どんなに口が悪くても僕は気にしない。何たって自分の為だからね!」
顔が熱くなって来る。少し、芝居じみていたかな。大げさにアピールするのってかなり体力を消耗するみたいだ。いや、恥ずかしさを押し殺すので先に精神の方が消耗しているのかもしれない。本当に僕はどうしちゃったんだろう。こんなキャラじゃなかったんだけどな。
時折、冷静になりかけて恥ずかしさに押しつぶされそうになる。それでも、僕は乗りかかった船を降りようとはせず、微笑んで話を続けた。
「灰坂。正直に言うよ? 灰坂って声は凄く綺麗なのに音程が悪すぎる」
「……はっきり言うんだね。面白かった?」
「そう怒らないでよ。言ったろ? 嘘つかないって。それでさ。その音程の悪さなんだけど、多分、僕なら直せるんだ」
僕がそう言った瞬間、灰坂の目は急に見開いて、スカートをギュッと握りしめたまま一歩踏み出した。
「ほ、ホントに?」
「だから何回も言わせないでよ。嘘つかないって。本当だよ。多分いけると思う」
「……多分って言うのが、気になるけど」
「そこは灰坂の頑張り次第だよ。サボらなきゃほぼ確実だ。この秘密の特訓ならね」
どうだ、と僕は真っ直ぐに灰坂と見合う。灰坂は唇を微妙に動かしながら、やがてスカートから手を離し、頷いた。
「……やる」
灰坂の目からはさっきまでなかった決意を感じた。それくらい力強い眼差しに僕は思わず視線を外してしまった。
何にせよ、上手く誘導出来たみたいだ。よし、これならいける。
僕は心の中でガッツポーズをして、灰坂に手を差し伸べた。
「よし。じゃあ契約成立。これは僕らだけの秘密だ」
灰坂は楽譜を拾って土を払うと、ゆっくり僕に近づいて、握手を交わした。
「うん。わかった。でも、一つ聞いていい?」
「ん? どうぞ」
「なんで、朝丘君なら直せるの?」
僕は「ホタルで良いよ」と笑って、空いていた左手の人差し指を自分に向けた。
「実は僕も昔、灰坂に負けないくらい音程が悪かったんだ————」
ギスギスを引きずっていて、女子と男子の会話が明らかに減っていた。男子は徐々にパート練習をサボりだし、女子はまだサボりこそいないものの、熱はあまり感じられない。完全に惰性だった。
それに、灰坂はあれからも変わらず、決して歌おうとする事はなかった。
僕は自分でもビックリしているけれど、この状況を何とかしなくてはと考えてしまっている。
まるで乗り気じゃなかったくせに、どうしてこんな気持ちになっているのか自分でも分からないけれど、日を追う事にどんどん悪くなっていく歌も、険悪なみんなの雰囲気も、何より灰坂の事を、どうしてもそのまま放っておく気になれなかった。
「————やっぱり灰坂が問題だよなぁ……でも、どうやって……」
帰り道。すっかり一人で帰るのに慣れた僕は、頭の中の言葉をブツブツと口に出しながらまだ見付かっていない解決策を必死に探していた。
「……あれ? こっちは確か」
頭をフル回転させながら夢中で歩いていたら、どうやら僕は道を間違えてしまったらしい。と言っても、知らない道に出たわけではない。立ち止まった横にはユキの隠れ夜景スポットである、あの神社の石段が上へと伸びていた。
「せっかくだし……ちょっと寄って行こうかな」
七月も中頃になると日は長く、夕方の時間でも辺りはまだまだ明るかった。
明るいうちに見てみたらどんな風景が見れるかと気になったのもあるし、願掛けでもしてみるかと安易な考えが浮かんで、僕は石段を上った。
「ん?」
石段をあと数段で上り終えるぐらいまで来て、僕はふと立ち止まった。
耳を澄ます。
何か聞こえる。声? 歌? 微かに届くそれに耳を澄ませながら、僕はまるでその音に引き寄せられる様に石段をまた上り始める。
その音が人の声、そして歌だとわかったのは石段を上り終えて鳥居をくぐった時だった。そこまで大きく無い神社だから鳥居から社殿までの距離は十メートルくらいしかない。
しかし、鳥居の下から見回す限りでは、その声の主を見つける事が出来なかった。
僕は高台から見える景色に目もくれず、いまだ聞こえ続ける歌の方へと歩いていく。
歌は社殿の裏側から聞こえていた。そばまで来ると、大分はっきり聞こえてくる。凄く澄んだソプラノボイスだ。基礎が出来ているのか響きが凄く綺麗で、その伸びやかな歌声に思わず聞き惚れてしまいそうになる。
……ただ、えらく調子っぱずれだった。つまりは音痴。おかげで気づくのにかなり時間が掛かったけれど、これはお祭りで歌う合唱曲のソプラノパートだ。でも二年のソプラノにこんな音痴はいない。じゃあ一体誰が?
僕はそのあまりに音痴で綺麗な声の主がどんどん気になってきて好奇心を抑え切れず、バレない様にこっそり盗み見る事にした。
「どんな人が歌ってるんだろう? ……あっ!」
正体を見た僕は思わず声を上げてしまった。瞬間、反射的に手で口を塞いで素早く身を隠したけど、やっぱり気付かれてしまったのか、歌は止まってしまった。
しかし、彼女がこちらに来る気配は無い。もしかして様子をうかがっているのだろうか。秘密の特訓がバレて、動揺しているのだろうか。
いずれにせよ今なら、このまま逃げられそうだ……けど、僕はそうしなかった。
高鳴る心臓が治まるのを待ってから、覚悟を決めて社殿の裏に飛び出す。
「ごめん! 盗み聞きするつもりじゃなかったんだ」
僕の視線の先に居た灰坂は、ソプラノ用の楽譜を持った手をダランと下げて俯いていた。
「あ、あのさ。そんな綺麗な歌声してるんだから歌えば、良いのに」
灰坂はこちらを見ようともしない。最初にこっちを見て僕を確認してから、ずっと俯いたままだった。
「あー……その、何となくわかるよ灰坂の気持ち。俺も転校して来たばっかだからさ……」
一人で喋り続けて、これじゃあの時の女子と一緒だと気づく。灰坂はまだ何も言ってないのに、ころころ話題を変えては灰坂も何から答えていいか混乱してしまうだろう。
そう。僕は本当に何となく分かっているんだ。灰坂が喋らない理由を。
そして歌わない理由は今、ようやく分かった。
……沈黙が続く。ようやく日は傾き始め、空は少しずつオレンジ色に染まっていった。
僕たちは一歩も動かず、少しずつ影を伸ばしていくだけだった。
「あの……」
辛抱強く待っていると、ようやく灰坂が口を開いた。空はオレンジから赤を帯びて来ている。
「ん? なに?」
初めて灰坂の声を聞いた僕は、何も気にしていない素振りで明るく返事をする。灰坂は顔を上げて、体ごとこちらに向き直った。
「あの……み、みんなには内緒に……」
灰坂は小刻みに震えながら必死に声を出している。震える両手がスカートをギュッと掴むと、手に持っていた楽譜が地面に落ちた。
「こ、この事! みんなには……内緒にして、下さい……」
お願いしようとして、途中で諦める。そんな尻すぼみな喋り方だった。
「もちろん。そのつもりだよ」
僕は努めて軽く返事をする。灰坂の言葉を待っていた沈黙の間に、僕は良い考えを思いついていた。それが成功すればきっと問題は全て解決する筈だ。
だから、このチャンスは逃せない。
「だからさ。まず、落ち着いてくれないかな。僕は別に敵じゃないし、別に灰坂を嫌っているわけでもないし。まぁ、好きってわけでもないけど」
灰坂は真っ直ぐ見つめたまま、黙っている。震えは少し治まったみたいだ。
「とりあえず、話を聞いてくれないかな? もちろん時間はとらせないし、答えは首を振って示してくれれば良い。オーケー?」
僕は敵意が無いという意思を両手を上げて大げさにアピールした。少し嘘くさかったかも知れないけれど、こうする他に何も思いつかなかった。
灰坂は少し間をあけて、僕の言葉通り、コクンと首を縦に振って了解を示した。
「ありがとう。でさ、きっとこの前の事……いや、転校して来てから色々気にしていると思うんだけど。灰坂はどうにも出来ない自分に少し腹が立っていたりするんじゃないかな?」
灰坂は首を動かさず、僕を見ているだけ。僕は視線を外さず、笑顔を作ってなるべく傷つけない様に灰坂の心を誘導する。
「まぁいいや。まぁ大方、前の学校であった事が原因なんでしょ? 何となく分かるよ。人が多いと色々あるからさ。色んな人が居るから。でも、こっちの人。つまり今のクラスにはそういう人が居ない。それはわかるよね?」
灰坂は唇を結んで、ゆっくり頷いた。よし。良い流れだ。
「でも、どうしたらいいか分からない。自分でも自分が分からない。信じるのが恐い。だから距離をとるしか無い。でもそれじゃ何も変わらない。むしろ状況は悪くなっていく。灰坂。それはもうわかってるんでしょ?」
僕が勝手に代弁するように言うと、灰坂はしばしの沈黙の後、また頷いた。
やっぱりそうか。
自分でも何だか似合わない事をしていると思うけど、恥ずかしがってもいられない。
それに、ここまでくればあとはもう一押しだ。
「なら、僕の作戦に乗らないか? 良い解決方法があるんだ」
灰坂は即座に首を横に振る。でも、これは問題ない。
「まぁ聞いてよ。何も灰坂の為ってわけじゃないんだ。これは言ってしまえば僕のため。たまたま灰坂の問題を解決するのが一番手っ取り早いってだけなんだ。でも一つ約束する。僕は灰坂に嘘をつかない。だから灰坂、僕の為に協力してくれないかな。これは友達になろうとか灰坂を助けようとかそんな良いものじゃなくて、なんて言うのかな……そう! 利害一致の関係だ。お互いの『得』の為に動くんだ。どうかな?」
灰坂は顎を少し上げて空を見上げた。どうやら悩んでいるみたいだ。
僕としてはもう少し強引な手段もあったけれど、出来れば灰坂が自主的に動いてくれるのが望ましい。その方が後々を考えて効率が良いからだ。
僕はグッと唾を飲み込んで、灰坂の返事を待った。
「————作戦って具体的に……何するの?」
灰坂はまだ答えを出せないらしく、僕に視線を戻して質問して来た。これも当然と言えば当然、問題ない。
僕はわざとらしく笑って答えた。
「簡単だよ! 秘密の特訓!」
「……具体的じゃない」
「ははは! 喋る様になってきたね。いいよ! どんどん来て! どんなに口が悪くても僕は気にしない。何たって自分の為だからね!」
顔が熱くなって来る。少し、芝居じみていたかな。大げさにアピールするのってかなり体力を消耗するみたいだ。いや、恥ずかしさを押し殺すので先に精神の方が消耗しているのかもしれない。本当に僕はどうしちゃったんだろう。こんなキャラじゃなかったんだけどな。
時折、冷静になりかけて恥ずかしさに押しつぶされそうになる。それでも、僕は乗りかかった船を降りようとはせず、微笑んで話を続けた。
「灰坂。正直に言うよ? 灰坂って声は凄く綺麗なのに音程が悪すぎる」
「……はっきり言うんだね。面白かった?」
「そう怒らないでよ。言ったろ? 嘘つかないって。それでさ。その音程の悪さなんだけど、多分、僕なら直せるんだ」
僕がそう言った瞬間、灰坂の目は急に見開いて、スカートをギュッと握りしめたまま一歩踏み出した。
「ほ、ホントに?」
「だから何回も言わせないでよ。嘘つかないって。本当だよ。多分いけると思う」
「……多分って言うのが、気になるけど」
「そこは灰坂の頑張り次第だよ。サボらなきゃほぼ確実だ。この秘密の特訓ならね」
どうだ、と僕は真っ直ぐに灰坂と見合う。灰坂は唇を微妙に動かしながら、やがてスカートから手を離し、頷いた。
「……やる」
灰坂の目からはさっきまでなかった決意を感じた。それくらい力強い眼差しに僕は思わず視線を外してしまった。
何にせよ、上手く誘導出来たみたいだ。よし、これならいける。
僕は心の中でガッツポーズをして、灰坂に手を差し伸べた。
「よし。じゃあ契約成立。これは僕らだけの秘密だ」
灰坂は楽譜を拾って土を払うと、ゆっくり僕に近づいて、握手を交わした。
「うん。わかった。でも、一つ聞いていい?」
「ん? どうぞ」
「なんで、朝丘君なら直せるの?」
僕は「ホタルで良いよ」と笑って、空いていた左手の人差し指を自分に向けた。
「実は僕も昔、灰坂に負けないくらい音程が悪かったんだ————」