八月の蛍、あの夏の歌
19
————ボイトレも一週間が過ぎると、灰坂の歌は少しずつ良くなってきた。
始めたては誰だって伸びるのが早いものだけれど、それでもこの成長速度は素晴らしい。毎日真剣に取り組んで、家に帰っても僕の言った通り、いやきっとそれ以上に自主練習をしているんだろう。
「どう? 一番最初と聞き比べて」
「うん。全然違う。なんか気持ち悪さが減ってる」
「恥ずかしさが無くなったから声もハッキリしてるしね。だから音程もハッキリしている」
「確かに。初日は歌うのが恥ずかしかったけど、今は全然気にならないな。どんなに失敗してもホタル笑わないし。ちっとも気にしないから、私も失敗が恐くなくなった気がする」
笑わないのは僕が気をつけている事だからね。と心の中で呟く。
灰坂は日に日に歌が良くなるのと比例する様に、口数も多くなっていった。おかげで今では変に沈黙する事も無いし、いつだってスムーズに会話が進められる。信頼関係は大分築けて来たように思えた。
「よし。じゃあ昼休憩しようか」
午前のボイトレをキリ良く終えて、僕と灰坂は居間に向かった。
「————灰坂のお弁当って結構洋風だよね。おばあさんの料理ってもっとこう和食なイメージがあったけどそうでもないんだ?」
一日通してボイトレをするようになってから、僕らは昼休憩を取るようになり、灰坂は毎日お弁当を持って来るようになった。僕は、そのおかずのレパートリーを見る度に思っていた事を今日に限ってソーメンを啜りながら聞いてみる。
向かいに座っている灰坂は僕の問いに、お弁当の蓋を開けながら顔を上げた。
「ん? これ作ってるの私だよ?」
「え? 自分で作ってるの?」
「うん。変、かな?」
いや、変ではないけど。と首を傾げながらまたソーメンを啜る。
とは言え、同い年の中に自分でお弁当を作って来る人なんて今まで見た事が無い。僕ですら作ってもらっているのに。ちょっと尊敬。というか好印象だ。
「……って事は学校のお弁当も?」
「うん。家での食事以外は自分で作ってるよ? たまに家のも作るけど」
「なんかすごいな」
「別にすごくないよ。割と好きなんだ」
灰坂は薄く笑った。何気ない一瞬だったけど、初めて僕に見せた笑顔だった。
何だか僕の心の中に余計なおせっかいが生まれそうな気配がする。合唱が成功してくれればそれで良かったんだけれど、何だかそれ以上を求めてしまいそうだ。
心がソワソワする。僕はソーメンを啜りながら考えた。
踏み込むにはどうすれば良いのか。どうすれば踏み込ませてくれるのだろうか。そんな事を考えている時点で、今日の予定変更は既に確定だった。
「————よし、灰坂。少し散歩しようか」
「え? なんで?」
食事を終えて僕が切り出すと、灰坂は当然だけど驚いた。唐突な提案はまるで意味不明だろうけど、僕は気にせず自分の腹を軽く叩く。
「ちょっと食べ過ぎちゃったから腹ごなしにさ」
「私は食べ過ぎてないよ?」
そんな事は最初から分かっている。満腹だと声が出しにくくなるから、腹八分目にするよう言ったのは他でもなくこの僕なんだから。
ちなみに、もちろん僕も食べ過ぎてなんか無い。
「まぁそう言わず僕に付き合ってよ。それとも、誰もいない他人の家で一人で待つ方が良い?」
「もう……わかったよ」
少し意地悪な言い方だったけど仕方が無い。でも、これで自然に話す時間が出来た。
今が良い傾向なら、きっと今がチャンスなんだと思う。だからより良い結果を求めてもう少し行動してみようと思った。
家を出て、僕たちは灰坂が一人で練習していた神社の方に歩き出した。
なるべく沢山話せる様に、ペースはゆっくり。流れ次第では午後のボイトレは中止になるだろう。
「なんて言うかさ。灰坂」
「ん?」
僕は両手を頭の後ろで組んで、何だかカズみたいに足を前へ放り投げる様にしてダラダラ歩いた。隣で歩く灰坂はダラダラと言うよりトボトボといった歩き方で僕に振り向いた。
僕は何となく切り込み方を探りながら会話を繋ぐ。
「こっちって色々不便だよな」
「何? 急に」
「いや、こっち来た時ビックリしなかった? コンビニも家も街灯も全然無いし、見渡す限りに緑、茶、青ばっかりな風景でさ」
僕は初めてここに来た日を思い出す。思えば、随分馴染んだものだ。
「僕が引っ越して来た時はさ、何だかどこにいても居心地悪くて、自分の部屋で寝れない夜を過ごしたよ」
僕は共感を得たくて笑い話みたいに話したんだけど、灰坂は少し顔を曇らせて、視線を落とした。
「私は……あんまり何も考えてなかったな。別にどうでも良かった。他の事で頭がいっぱいだったから。っていうか知ってるんでしょ?」
「え? 何が?」
少し怒ったような口調になっていく灰坂の言葉が、僕には本当に良く分からなかった。
「私が転校した理由だよ。 っていうか初めて話した時ホタル言ってたじゃん!」
口調を荒げる灰坂を見て、僕はようやく思い出した。脳裏にあの神社の裏での会話が甦って来る。
そうだ。確かになんとなくわかるって言っていた。と言うより分かってたんだ僕は。
でも、それはこうして自然に話せる様になる前の灰坂を見て予想した事であって、実際にこうやって話してみると、そのあまりの普通さについ忘れてしまっていた。
「そうだ。ごめん。言ったねそんなような事。確かにあの時は何となく予想がついていたんだよ。でもさ、こうやって灰坂と四六時中一緒に居て、普通に話している内に何だか、どんどんわかんなくなってくるんだ。灰坂が転校した理由が」
僕は正直な気持ちを率直に灰坂に話した。
心を開いて欲しければ、こちらから開かなきゃいけない。
受け売りはこんな時にも頭に浮かんでくる。よっぽど僕に根付いているんだろう。
「……聞きたいの?」
「うーん。まぁ、出来れば」
「……何で?」
「何でって言われても……灰坂の事もっと知りたい。から?」
「え?」
「あ、いや! 違う! 変な意味じゃなくて!」
確かに今のは誤解され兼ねない言い方だった。驚いた灰坂は一瞬で顔を上げたけど、向けられた顔は直ぐに怪訝な表情に変わって、焦った僕はとにかく弁解しなくては、と手振りを付けて言葉を連射した。
「だから、なんて言うのかな。ここまで来たら聞いておきたいって言うか。僕も灰坂に嘘をつかないって宣言したし、だからもっと灰坂の本音も聞いてみたいって言うか。あー、なんて言えば良いのかな……」
急にフル回転させた頭は完全にオーバーヒートしていた。夏の暑さに恥ずかしさの熱が加わると、僕の脳みそはもう通常時の半分以下の性能になっていた。
灰坂は少し俯いて「うーん……」と唸ると、何かを思いついたように顔を上げて僕に頷いた。
「まぁそこまで言うなら……ボイトレのお礼もあるし」
「本当?」
僕が足を止めると、灰坂も一歩進んで立ち止まり、振り返った。
「そのかわり。私も踏み込んでいい? あと嘘禁止で」
それでもいい? と聞く灰坂に僕は「もちろん」と頷いた。お互いに踏み込む事で距離が縮まれば、僕にとってはむしろ好都合だ。そうなれば僕も更に踏み込みやすくなる。
「それじゃ、あそこに行って話そうか」
僕は真横にある石段の上を指差す。計算通り、とは言えない。八割は偶然だ。
絶妙なタイミングで神社の前まで来ていた僕らは、揃って石段を上っていく。
今日の午後のボイトレはどうやら中止になりそうだ————。
始めたては誰だって伸びるのが早いものだけれど、それでもこの成長速度は素晴らしい。毎日真剣に取り組んで、家に帰っても僕の言った通り、いやきっとそれ以上に自主練習をしているんだろう。
「どう? 一番最初と聞き比べて」
「うん。全然違う。なんか気持ち悪さが減ってる」
「恥ずかしさが無くなったから声もハッキリしてるしね。だから音程もハッキリしている」
「確かに。初日は歌うのが恥ずかしかったけど、今は全然気にならないな。どんなに失敗してもホタル笑わないし。ちっとも気にしないから、私も失敗が恐くなくなった気がする」
笑わないのは僕が気をつけている事だからね。と心の中で呟く。
灰坂は日に日に歌が良くなるのと比例する様に、口数も多くなっていった。おかげで今では変に沈黙する事も無いし、いつだってスムーズに会話が進められる。信頼関係は大分築けて来たように思えた。
「よし。じゃあ昼休憩しようか」
午前のボイトレをキリ良く終えて、僕と灰坂は居間に向かった。
「————灰坂のお弁当って結構洋風だよね。おばあさんの料理ってもっとこう和食なイメージがあったけどそうでもないんだ?」
一日通してボイトレをするようになってから、僕らは昼休憩を取るようになり、灰坂は毎日お弁当を持って来るようになった。僕は、そのおかずのレパートリーを見る度に思っていた事を今日に限ってソーメンを啜りながら聞いてみる。
向かいに座っている灰坂は僕の問いに、お弁当の蓋を開けながら顔を上げた。
「ん? これ作ってるの私だよ?」
「え? 自分で作ってるの?」
「うん。変、かな?」
いや、変ではないけど。と首を傾げながらまたソーメンを啜る。
とは言え、同い年の中に自分でお弁当を作って来る人なんて今まで見た事が無い。僕ですら作ってもらっているのに。ちょっと尊敬。というか好印象だ。
「……って事は学校のお弁当も?」
「うん。家での食事以外は自分で作ってるよ? たまに家のも作るけど」
「なんかすごいな」
「別にすごくないよ。割と好きなんだ」
灰坂は薄く笑った。何気ない一瞬だったけど、初めて僕に見せた笑顔だった。
何だか僕の心の中に余計なおせっかいが生まれそうな気配がする。合唱が成功してくれればそれで良かったんだけれど、何だかそれ以上を求めてしまいそうだ。
心がソワソワする。僕はソーメンを啜りながら考えた。
踏み込むにはどうすれば良いのか。どうすれば踏み込ませてくれるのだろうか。そんな事を考えている時点で、今日の予定変更は既に確定だった。
「————よし、灰坂。少し散歩しようか」
「え? なんで?」
食事を終えて僕が切り出すと、灰坂は当然だけど驚いた。唐突な提案はまるで意味不明だろうけど、僕は気にせず自分の腹を軽く叩く。
「ちょっと食べ過ぎちゃったから腹ごなしにさ」
「私は食べ過ぎてないよ?」
そんな事は最初から分かっている。満腹だと声が出しにくくなるから、腹八分目にするよう言ったのは他でもなくこの僕なんだから。
ちなみに、もちろん僕も食べ過ぎてなんか無い。
「まぁそう言わず僕に付き合ってよ。それとも、誰もいない他人の家で一人で待つ方が良い?」
「もう……わかったよ」
少し意地悪な言い方だったけど仕方が無い。でも、これで自然に話す時間が出来た。
今が良い傾向なら、きっと今がチャンスなんだと思う。だからより良い結果を求めてもう少し行動してみようと思った。
家を出て、僕たちは灰坂が一人で練習していた神社の方に歩き出した。
なるべく沢山話せる様に、ペースはゆっくり。流れ次第では午後のボイトレは中止になるだろう。
「なんて言うかさ。灰坂」
「ん?」
僕は両手を頭の後ろで組んで、何だかカズみたいに足を前へ放り投げる様にしてダラダラ歩いた。隣で歩く灰坂はダラダラと言うよりトボトボといった歩き方で僕に振り向いた。
僕は何となく切り込み方を探りながら会話を繋ぐ。
「こっちって色々不便だよな」
「何? 急に」
「いや、こっち来た時ビックリしなかった? コンビニも家も街灯も全然無いし、見渡す限りに緑、茶、青ばっかりな風景でさ」
僕は初めてここに来た日を思い出す。思えば、随分馴染んだものだ。
「僕が引っ越して来た時はさ、何だかどこにいても居心地悪くて、自分の部屋で寝れない夜を過ごしたよ」
僕は共感を得たくて笑い話みたいに話したんだけど、灰坂は少し顔を曇らせて、視線を落とした。
「私は……あんまり何も考えてなかったな。別にどうでも良かった。他の事で頭がいっぱいだったから。っていうか知ってるんでしょ?」
「え? 何が?」
少し怒ったような口調になっていく灰坂の言葉が、僕には本当に良く分からなかった。
「私が転校した理由だよ。 っていうか初めて話した時ホタル言ってたじゃん!」
口調を荒げる灰坂を見て、僕はようやく思い出した。脳裏にあの神社の裏での会話が甦って来る。
そうだ。確かになんとなくわかるって言っていた。と言うより分かってたんだ僕は。
でも、それはこうして自然に話せる様になる前の灰坂を見て予想した事であって、実際にこうやって話してみると、そのあまりの普通さについ忘れてしまっていた。
「そうだ。ごめん。言ったねそんなような事。確かにあの時は何となく予想がついていたんだよ。でもさ、こうやって灰坂と四六時中一緒に居て、普通に話している内に何だか、どんどんわかんなくなってくるんだ。灰坂が転校した理由が」
僕は正直な気持ちを率直に灰坂に話した。
心を開いて欲しければ、こちらから開かなきゃいけない。
受け売りはこんな時にも頭に浮かんでくる。よっぽど僕に根付いているんだろう。
「……聞きたいの?」
「うーん。まぁ、出来れば」
「……何で?」
「何でって言われても……灰坂の事もっと知りたい。から?」
「え?」
「あ、いや! 違う! 変な意味じゃなくて!」
確かに今のは誤解され兼ねない言い方だった。驚いた灰坂は一瞬で顔を上げたけど、向けられた顔は直ぐに怪訝な表情に変わって、焦った僕はとにかく弁解しなくては、と手振りを付けて言葉を連射した。
「だから、なんて言うのかな。ここまで来たら聞いておきたいって言うか。僕も灰坂に嘘をつかないって宣言したし、だからもっと灰坂の本音も聞いてみたいって言うか。あー、なんて言えば良いのかな……」
急にフル回転させた頭は完全にオーバーヒートしていた。夏の暑さに恥ずかしさの熱が加わると、僕の脳みそはもう通常時の半分以下の性能になっていた。
灰坂は少し俯いて「うーん……」と唸ると、何かを思いついたように顔を上げて僕に頷いた。
「まぁそこまで言うなら……ボイトレのお礼もあるし」
「本当?」
僕が足を止めると、灰坂も一歩進んで立ち止まり、振り返った。
「そのかわり。私も踏み込んでいい? あと嘘禁止で」
それでもいい? と聞く灰坂に僕は「もちろん」と頷いた。お互いに踏み込む事で距離が縮まれば、僕にとってはむしろ好都合だ。そうなれば僕も更に踏み込みやすくなる。
「それじゃ、あそこに行って話そうか」
僕は真横にある石段の上を指差す。計算通り、とは言えない。八割は偶然だ。
絶妙なタイミングで神社の前まで来ていた僕らは、揃って石段を上っていく。
今日の午後のボイトレはどうやら中止になりそうだ————。