八月の蛍、あの夏の歌
22
————翌日。
僕は神田商店に向かっていた。
晴れ晴れとした夏空は変わらず暑苦しいのに、僕はそれを物ともせず、少しだけ疼く心臓に自転車のスピードを少し上げて土がむき出した道に、風を通した。
昨日を振り返る。自分でも想像しなかった結果だったけれど、それは想像以上の結果で、思い出すだけで体がムズムズした。
僕は余計なおせっかい心と言うか、今だから言えるけど、結構軽い気持ちで『今なら、もうユキと仲直り出来るんじゃないか?』って思っていた。
しかし、あのドラマの様に劇的な感じはなんだ。僕は僕で恥ずかしい台詞をツラツラと並べているし、灰坂はまるで心の氷が溶けた様に笑いながら泣いていた。
雰囲気って恐ろしい。何だかあの時の僕は僕じゃないような気がした。
少なくとも、あんな台詞はもう言えない。
「————こんにちは」
神田商店の前に自転車を止めて戸を開ける。奥に腰を下ろしていたユキのお父さんが僕と目が合うと「久しぶりだな」と笑って煙草を消した。そう言えばカズの特訓が始まってから来ていなかった気がする。と言っても、たった数週間だけど。
「すいません。ユキ、いますか?」
昨日の夜に電話で約束を取り付けているので、いるのは分かってるんだけれど、そこは村のやり方に従う。玄関に入って所在を聞く。もう慣れたもんだ。
「おう。部屋で宿題でもやってんじゃねーか? おーい! 由紀ー! ホタル来たぞー!」
ユキのお父さんの声は快活で、まるで初夏の虫がやって来たみたいに聞こえるなって思った。僕はユキのお父さんにホタルと言われるのが今でも慣れない。この人は大人の中で唯一、僕をホタルと呼ぶ人物だった。
「はーい!」
お父さんに呼ばれて、声と共にユキが駆け足で階段を下りて来る。
「久しぶりだねホタル!」
ユキは満面の笑顔で僕に手を挙げると、下に置いてある靴に履き替えた。
「いやいや、ユキ。まだ一週間ちょっとだよ」
「そっか!」
笑う僕に、ユキも笑って顔を上げた。
ユキのお父さんに挨拶して、僕たちは店を出て自転車にまたがった。僕がゆっくりと漕ぎだすとユキも着いて来て、二人並んで走り慣れた道を進んでいった。
「————ホタル。今日はどうしたの? わざわざ電話までして来て明日遊ばないって。ホタルから誘って来るなんて初めてじゃん」
出発して緩やかな速度が安定すると、自転車を走らせているとユキが僕へ振り向いた。僕は電話で約束を取り付けるのは当たり前なんだけどな、と思いながら話をごまかす。
「いや、何かユキの隠れ夜景スポットの景色を昼間見たらどうなんだろうって考えたらなんか止まらなくなっちゃって。一人で見に行くのもなんだからユキを誘ったんだよ。元々ユキに教えてもらった場所だしね」
ユキは僕の言葉を全く疑いもせずに「そっか!」と笑った。
「良く気づいたねホタル! あそこは昼間も良いんだよ! ねぇ、そう言えばさ。ホタルは夏休みどうしてるの? プールにも来ないじゃん」
「あー、うん。まぁ色々とね。家の事とかしたり、ピアノ練習したり宿題やったり」
僕はまた話をごまかす。今は仕方が無い。もう少しだ。今日が終われば少なくともユキには今後、嘘をつかなくて済む。だから、あと十分程耐えればいいんだ。
「ふーん、そうなんだ。でもたまにはプール来なよ! 気持ちいいよ! それになんだかんだみんなプール終わりにパート毎で集まってるしね!」
「え? そうなの?」
「うん。やっぱりやらないと不安だし。今週からまた全体の合唱始まるし、なおさらね。プールに来た人はみんなそうしてるよ? わざわざパート練習の為に来る人はいないけど」
驚いた。てっきりもっとやる気を削がれているかと思ったけれど、やっぱりこのクラスはまだまだ捨てたもんじゃないな。うん。成功させたい気持ちはみんな同じなんだ。ただ、また団結するキッカケが無いだけなんだ。これはいい流れだ。
「そうだね。気が向いたらプールにも行こうかな」
僕はそう言って石段の前で自転車を止めた。僕が自転車に鍵をかけている間にユキは鍵もかけず自転車を端に寄せて、石段を駆け上っていく。
「おっ先ー!」
その先に何が待っているかも知らずにユキは駆け足で上って行く。僕は急いでユキを追いかけた。流石に、いきなり一対一じゃ二人が可哀相だ。
そう。神社で灰坂がユキを待っていた————。
昨日はあれからずっと灰坂と話していた。心を開いてくれたのか、灰坂は色んな話を僕と交わした。都会からこっちに転校して来た時のカルチャーショックや向こうにいた時に流行っていたもの。多少のズレはあったけれど、やはり流行る物は似ていたし、こっちに転校して来た気持ちを共有し合えるのは僕らしかいないから、会話はかなり弾んだ。
その流れで僕は今日の計画を立てた。気持ちが冷める前に行動する。思い立ったら直ぐ行動ってなんかカズみたいであんまり参考にしたくないけれど、今回はその行動的な精神を少しだけ借りてみた。
「————ゴール! ……あれ?」
ユキは僕より一歩先に石段を上りきり、鳥居の下で両手を上げると、すぐ横にある丸太のベンチを見て、動きを止めた。
「……灰坂、さん?」
灰坂はベンチに座って、少し俯いていた。僕はユキごしに灰坂の姿を確認して、今日誘った本当の理由を話した。
「ユキ。ごめん。ちょっとだけ嘘ついた。あのさ、前に言ってくれた話覚えてる?」
「う……うん」
ユキは両手を下ろして、僕に振り向く。
「灰坂から話があるんだ。ユキ。聞いて上げてくれないかな?」
「え? う……うん」
ユキは顔を曇らせていたけれど、その顔が最後には必ず晴れると信じて丸太のベンチに腰を下ろしてもらった。灰坂は俯いたまま膝の上で拳をギュッと握っていて、ユキも目線をどこにやったら良いのか分からないようで辺りを見回していた。
その空気がいたたまれなくて、ユキと灰坂の間に僕が座って場を取りなす。
「ほら灰坂。昨日言ってた事をユキに伝えればいいんだよ。自分の今の正直な気持ちを」
灰坂が俯いたまま小刻みに頷いて、やっと顔を上げた。
「あ、あの……ユ……か、神田さん」
灰坂はプルプルと震えだし、また俯いてしまった。ユキも緊張した面持ちで灰坂の方を向いた。
「な、なんでしょう……」
灰坂は顔をゆっくりと上げて、ユキの方へ顔を向ける。僕は二人を遮らないように体を仰け反らした。
「あ、あの……私。ま、前にヒドい事言っちゃって……その、ユ、神田さんを傷つけちゃって……ご……ごめんなさい!」
「え? え?」
言い終わりに勢い良く頭を下げる灰坂にユキは驚いたのか、ビクッと体を反応させて僕と灰坂に顔を往復させた。
当然の事だけどユキは何が何だか分からないようで、僕の肩を何回か叩く。僕はユキの手を下ろして頷いて、灰坂の肩を叩いた。
顔を上げた灰坂に頷くと、灰坂もしっかり頷き返してまたユキの方に視線をずらした。
「あの時はごめんなさい。本当はすごく嬉しかった。すごくすごく嬉しかったの! でも……私、前の学校の事でちょっと人を信じられなくなってて……神田さんをすごく傷つけちゃったのは分かってたんだけど、考えれば考える程ダメで。ごめんなさい……今更こんな事言っても信じてくれないかも知れないけど、その……あれは、私の本心じゃないの。本当は私……か、ユ……ユキと友達になりたい!」
灰坂は精一杯声を振り絞ってユキに伝えた。友達になりたいって。
不器用だけど真っ直ぐなその言葉はきっとユキの心に届いたはずだ。ユキなら届く筈だ。
僕はそれでも一応、経緯とかの補足を入れておこうかと思ったけれど、やっぱりそれはやめておいた。だってユキの目から涙が零れていたから。
数秒間の沈黙が落ちる。
ユキは自分を落ち着かせるように深く息を吐くと、涙を拭いて灰坂の手を取った。
「ありがとう。でも、もう謝らないで。それと、人の事情を知らずにおせっかい焼いた私にも謝らせて……本当にごめんなさい。私も灰坂さんと友達になりたい」
灰坂はきっと何か言おうと口を開いたんだけれど自分の涙でそれを遮られたのか、顔を歪ませながらユキに抱きついた。
「……ごめんなさい。ありがとう」
「謝るのは私だよ。ごめんなさい……ありがとう」
ユキも灰坂を抱きしめて涙を流す。灰坂がユキに抱きつく瞬間に避ける様にベンチから立ち上がった僕は、声を出して泣きながら抱き合う女子を黙って見ているしか無かった。
「————ホタル……ありがとう」
ようやく二人とも落ち着いて、体を離すとユキが僕にお礼を言った。灰坂も僕に深々と頭を下げてくる。
「本当にありがとう。何から何まで」
二人は体を離した後も何故だか手を繋いでいて、僕は座るに座れず立ったまま話を進める事にした。
「良かった。これで一件落着だね。後は細かい事も説明したいんだけど。いいよね灰坂」
灰坂は真剣な表情で頷いた。ユキは首を傾げた。
「ユキ。本当の事を言うと実はね、夏休みに入ってから僕と灰坂はずっと歌の特訓をしていたんだ。で、それにも事情があってね————」
————僕の細かい事情説明が終わると、ユキは合点がいったようで「なるほど!」と笑った。
「ねぇねぇ。それさ私も何か手伝えないかな?」
「手伝い? うーん。そうだね」
ユキの申し出に首をひねる。気持ちは有り難いんだけど、ユキに手伝って欲しい事は、特にはなかった。ボイトレは僕がやる事だし、人手は足りている。だとすると、協力して欲しいとしたら作戦実行当日くらいか。
「今の所ないけど、そしたら当日はちょっと協力してもらうかも」
「オッケー! じゃあ、時々遊びに行っても良い? 毎日やってるんでしょ?」
ユキはきっと灰坂と友達になれて嬉しいんだろう。ようは灰坂と会いたいんだ。
「もちろん良いよ」
「ユキ! 毎日でもいいよ!」
灰坂もユキと同様のようだ。二人で笑い合っている姿を見て、僕は女子のすぐ仲が良くなるあの感じを思い出した。昔なら現金なもんだなって思っていたかもしれないけれど、今の僕は何だか心が晴れていた。もちろん他人の事、しかも女子の事でここまで動いたのは初めてだったけれど、結構悪くないもんだと思った。すごく疲れるけど。
「じゃあ二人はこれからそのボイトレ?」
「いや、今日はもう無しかな」
僕はユキの問いに首を振る。せっかくだし、灰坂にとって久しぶりの友達との時間だ。邪魔をする気にはなれなかった。というより成功したら初めからそうするつもりだった。この結果は予想出来たし、それに灰坂の頑張りもあってボイトレの進みは予想を遥かに越えているくらいだから、一日半の遅れなんか何でもない。
「じゃあ二人とも家に来ない? 暑いしさ、アイス食べようよ!」
「え? いいの? 行きたい! 食べたい!」
灰坂も今まで見た事無いくらいはしゃいで、ユキの案に賛成した。
僕ももちろん賛成して、みんなで石段を駆け下りた。
「————平気? 重くない?」
僕の自転車の荷台に乗った灰坂は、不安そうに聞いてきた。
「うん平気。軽い軽い」
灰坂は自転車で来てなかったので、荷台のついているユキの自転車を借りて僕が乗せていく事になった。わざわざそこまでするくらい日中の気温は上がっていて、とてもじゃないけれどダラダラ歩きながら行く気にはなれなかった。
「ホタルから聞いたんだけど、ユキの家ってお店なんだよね?」
「そう! 神田商店! いつでも来てよね!」
「うん! ありがとう!」
ユキは僕のマウンテンバイクで並走しているけれど、ずっと荷台の灰坂と話している為、少し後ろにいた。僕はまさしく運転手の気分で神田商店に向かった————。
「おー! おかえり!」
三人揃ってお店に入ると、ユキのお父さんはやっぱり笑顔で迎えてくれた。
「お……おじゃまします」
初めて入る神田商店に緊張しているのか、灰坂はユキのお父さんにぎこちなく頭を下げた。
「おう! いらっしゃい!」
ユキのお父さんは変わらぬ笑顔で灰坂の肩をポンポンと叩いた。灰坂は顔を上げて、嬉しそうに微笑んだ。
「どうぞどうぞ! 上がって!」
ユキは靴を脱いで僕と灰坂を手招きする。
「あ、う、うん」
灰坂は靴を脱いでユキに続いて階段を上がっていく。ユキの部屋に入るのは僕も初めてで、少し緊張して靴を脱ぐのに手こずった。灰坂は階段を上がって見えなくなるかならないかのギリギリの所で立ち止まり、僕に振り返った。
「ホタル! 早く!」
灰坂はそう言って笑ったまま階段を駆け上がっていった。僕は見違える様に明るくなった灰坂の姿を見て、何となくこれからの事が全て上手く行きそうな気がしてきた————。
僕は神田商店に向かっていた。
晴れ晴れとした夏空は変わらず暑苦しいのに、僕はそれを物ともせず、少しだけ疼く心臓に自転車のスピードを少し上げて土がむき出した道に、風を通した。
昨日を振り返る。自分でも想像しなかった結果だったけれど、それは想像以上の結果で、思い出すだけで体がムズムズした。
僕は余計なおせっかい心と言うか、今だから言えるけど、結構軽い気持ちで『今なら、もうユキと仲直り出来るんじゃないか?』って思っていた。
しかし、あのドラマの様に劇的な感じはなんだ。僕は僕で恥ずかしい台詞をツラツラと並べているし、灰坂はまるで心の氷が溶けた様に笑いながら泣いていた。
雰囲気って恐ろしい。何だかあの時の僕は僕じゃないような気がした。
少なくとも、あんな台詞はもう言えない。
「————こんにちは」
神田商店の前に自転車を止めて戸を開ける。奥に腰を下ろしていたユキのお父さんが僕と目が合うと「久しぶりだな」と笑って煙草を消した。そう言えばカズの特訓が始まってから来ていなかった気がする。と言っても、たった数週間だけど。
「すいません。ユキ、いますか?」
昨日の夜に電話で約束を取り付けているので、いるのは分かってるんだけれど、そこは村のやり方に従う。玄関に入って所在を聞く。もう慣れたもんだ。
「おう。部屋で宿題でもやってんじゃねーか? おーい! 由紀ー! ホタル来たぞー!」
ユキのお父さんの声は快活で、まるで初夏の虫がやって来たみたいに聞こえるなって思った。僕はユキのお父さんにホタルと言われるのが今でも慣れない。この人は大人の中で唯一、僕をホタルと呼ぶ人物だった。
「はーい!」
お父さんに呼ばれて、声と共にユキが駆け足で階段を下りて来る。
「久しぶりだねホタル!」
ユキは満面の笑顔で僕に手を挙げると、下に置いてある靴に履き替えた。
「いやいや、ユキ。まだ一週間ちょっとだよ」
「そっか!」
笑う僕に、ユキも笑って顔を上げた。
ユキのお父さんに挨拶して、僕たちは店を出て自転車にまたがった。僕がゆっくりと漕ぎだすとユキも着いて来て、二人並んで走り慣れた道を進んでいった。
「————ホタル。今日はどうしたの? わざわざ電話までして来て明日遊ばないって。ホタルから誘って来るなんて初めてじゃん」
出発して緩やかな速度が安定すると、自転車を走らせているとユキが僕へ振り向いた。僕は電話で約束を取り付けるのは当たり前なんだけどな、と思いながら話をごまかす。
「いや、何かユキの隠れ夜景スポットの景色を昼間見たらどうなんだろうって考えたらなんか止まらなくなっちゃって。一人で見に行くのもなんだからユキを誘ったんだよ。元々ユキに教えてもらった場所だしね」
ユキは僕の言葉を全く疑いもせずに「そっか!」と笑った。
「良く気づいたねホタル! あそこは昼間も良いんだよ! ねぇ、そう言えばさ。ホタルは夏休みどうしてるの? プールにも来ないじゃん」
「あー、うん。まぁ色々とね。家の事とかしたり、ピアノ練習したり宿題やったり」
僕はまた話をごまかす。今は仕方が無い。もう少しだ。今日が終われば少なくともユキには今後、嘘をつかなくて済む。だから、あと十分程耐えればいいんだ。
「ふーん、そうなんだ。でもたまにはプール来なよ! 気持ちいいよ! それになんだかんだみんなプール終わりにパート毎で集まってるしね!」
「え? そうなの?」
「うん。やっぱりやらないと不安だし。今週からまた全体の合唱始まるし、なおさらね。プールに来た人はみんなそうしてるよ? わざわざパート練習の為に来る人はいないけど」
驚いた。てっきりもっとやる気を削がれているかと思ったけれど、やっぱりこのクラスはまだまだ捨てたもんじゃないな。うん。成功させたい気持ちはみんな同じなんだ。ただ、また団結するキッカケが無いだけなんだ。これはいい流れだ。
「そうだね。気が向いたらプールにも行こうかな」
僕はそう言って石段の前で自転車を止めた。僕が自転車に鍵をかけている間にユキは鍵もかけず自転車を端に寄せて、石段を駆け上っていく。
「おっ先ー!」
その先に何が待っているかも知らずにユキは駆け足で上って行く。僕は急いでユキを追いかけた。流石に、いきなり一対一じゃ二人が可哀相だ。
そう。神社で灰坂がユキを待っていた————。
昨日はあれからずっと灰坂と話していた。心を開いてくれたのか、灰坂は色んな話を僕と交わした。都会からこっちに転校して来た時のカルチャーショックや向こうにいた時に流行っていたもの。多少のズレはあったけれど、やはり流行る物は似ていたし、こっちに転校して来た気持ちを共有し合えるのは僕らしかいないから、会話はかなり弾んだ。
その流れで僕は今日の計画を立てた。気持ちが冷める前に行動する。思い立ったら直ぐ行動ってなんかカズみたいであんまり参考にしたくないけれど、今回はその行動的な精神を少しだけ借りてみた。
「————ゴール! ……あれ?」
ユキは僕より一歩先に石段を上りきり、鳥居の下で両手を上げると、すぐ横にある丸太のベンチを見て、動きを止めた。
「……灰坂、さん?」
灰坂はベンチに座って、少し俯いていた。僕はユキごしに灰坂の姿を確認して、今日誘った本当の理由を話した。
「ユキ。ごめん。ちょっとだけ嘘ついた。あのさ、前に言ってくれた話覚えてる?」
「う……うん」
ユキは両手を下ろして、僕に振り向く。
「灰坂から話があるんだ。ユキ。聞いて上げてくれないかな?」
「え? う……うん」
ユキは顔を曇らせていたけれど、その顔が最後には必ず晴れると信じて丸太のベンチに腰を下ろしてもらった。灰坂は俯いたまま膝の上で拳をギュッと握っていて、ユキも目線をどこにやったら良いのか分からないようで辺りを見回していた。
その空気がいたたまれなくて、ユキと灰坂の間に僕が座って場を取りなす。
「ほら灰坂。昨日言ってた事をユキに伝えればいいんだよ。自分の今の正直な気持ちを」
灰坂が俯いたまま小刻みに頷いて、やっと顔を上げた。
「あ、あの……ユ……か、神田さん」
灰坂はプルプルと震えだし、また俯いてしまった。ユキも緊張した面持ちで灰坂の方を向いた。
「な、なんでしょう……」
灰坂は顔をゆっくりと上げて、ユキの方へ顔を向ける。僕は二人を遮らないように体を仰け反らした。
「あ、あの……私。ま、前にヒドい事言っちゃって……その、ユ、神田さんを傷つけちゃって……ご……ごめんなさい!」
「え? え?」
言い終わりに勢い良く頭を下げる灰坂にユキは驚いたのか、ビクッと体を反応させて僕と灰坂に顔を往復させた。
当然の事だけどユキは何が何だか分からないようで、僕の肩を何回か叩く。僕はユキの手を下ろして頷いて、灰坂の肩を叩いた。
顔を上げた灰坂に頷くと、灰坂もしっかり頷き返してまたユキの方に視線をずらした。
「あの時はごめんなさい。本当はすごく嬉しかった。すごくすごく嬉しかったの! でも……私、前の学校の事でちょっと人を信じられなくなってて……神田さんをすごく傷つけちゃったのは分かってたんだけど、考えれば考える程ダメで。ごめんなさい……今更こんな事言っても信じてくれないかも知れないけど、その……あれは、私の本心じゃないの。本当は私……か、ユ……ユキと友達になりたい!」
灰坂は精一杯声を振り絞ってユキに伝えた。友達になりたいって。
不器用だけど真っ直ぐなその言葉はきっとユキの心に届いたはずだ。ユキなら届く筈だ。
僕はそれでも一応、経緯とかの補足を入れておこうかと思ったけれど、やっぱりそれはやめておいた。だってユキの目から涙が零れていたから。
数秒間の沈黙が落ちる。
ユキは自分を落ち着かせるように深く息を吐くと、涙を拭いて灰坂の手を取った。
「ありがとう。でも、もう謝らないで。それと、人の事情を知らずにおせっかい焼いた私にも謝らせて……本当にごめんなさい。私も灰坂さんと友達になりたい」
灰坂はきっと何か言おうと口を開いたんだけれど自分の涙でそれを遮られたのか、顔を歪ませながらユキに抱きついた。
「……ごめんなさい。ありがとう」
「謝るのは私だよ。ごめんなさい……ありがとう」
ユキも灰坂を抱きしめて涙を流す。灰坂がユキに抱きつく瞬間に避ける様にベンチから立ち上がった僕は、声を出して泣きながら抱き合う女子を黙って見ているしか無かった。
「————ホタル……ありがとう」
ようやく二人とも落ち着いて、体を離すとユキが僕にお礼を言った。灰坂も僕に深々と頭を下げてくる。
「本当にありがとう。何から何まで」
二人は体を離した後も何故だか手を繋いでいて、僕は座るに座れず立ったまま話を進める事にした。
「良かった。これで一件落着だね。後は細かい事も説明したいんだけど。いいよね灰坂」
灰坂は真剣な表情で頷いた。ユキは首を傾げた。
「ユキ。本当の事を言うと実はね、夏休みに入ってから僕と灰坂はずっと歌の特訓をしていたんだ。で、それにも事情があってね————」
————僕の細かい事情説明が終わると、ユキは合点がいったようで「なるほど!」と笑った。
「ねぇねぇ。それさ私も何か手伝えないかな?」
「手伝い? うーん。そうだね」
ユキの申し出に首をひねる。気持ちは有り難いんだけど、ユキに手伝って欲しい事は、特にはなかった。ボイトレは僕がやる事だし、人手は足りている。だとすると、協力して欲しいとしたら作戦実行当日くらいか。
「今の所ないけど、そしたら当日はちょっと協力してもらうかも」
「オッケー! じゃあ、時々遊びに行っても良い? 毎日やってるんでしょ?」
ユキはきっと灰坂と友達になれて嬉しいんだろう。ようは灰坂と会いたいんだ。
「もちろん良いよ」
「ユキ! 毎日でもいいよ!」
灰坂もユキと同様のようだ。二人で笑い合っている姿を見て、僕は女子のすぐ仲が良くなるあの感じを思い出した。昔なら現金なもんだなって思っていたかもしれないけれど、今の僕は何だか心が晴れていた。もちろん他人の事、しかも女子の事でここまで動いたのは初めてだったけれど、結構悪くないもんだと思った。すごく疲れるけど。
「じゃあ二人はこれからそのボイトレ?」
「いや、今日はもう無しかな」
僕はユキの問いに首を振る。せっかくだし、灰坂にとって久しぶりの友達との時間だ。邪魔をする気にはなれなかった。というより成功したら初めからそうするつもりだった。この結果は予想出来たし、それに灰坂の頑張りもあってボイトレの進みは予想を遥かに越えているくらいだから、一日半の遅れなんか何でもない。
「じゃあ二人とも家に来ない? 暑いしさ、アイス食べようよ!」
「え? いいの? 行きたい! 食べたい!」
灰坂も今まで見た事無いくらいはしゃいで、ユキの案に賛成した。
僕ももちろん賛成して、みんなで石段を駆け下りた。
「————平気? 重くない?」
僕の自転車の荷台に乗った灰坂は、不安そうに聞いてきた。
「うん平気。軽い軽い」
灰坂は自転車で来てなかったので、荷台のついているユキの自転車を借りて僕が乗せていく事になった。わざわざそこまでするくらい日中の気温は上がっていて、とてもじゃないけれどダラダラ歩きながら行く気にはなれなかった。
「ホタルから聞いたんだけど、ユキの家ってお店なんだよね?」
「そう! 神田商店! いつでも来てよね!」
「うん! ありがとう!」
ユキは僕のマウンテンバイクで並走しているけれど、ずっと荷台の灰坂と話している為、少し後ろにいた。僕はまさしく運転手の気分で神田商店に向かった————。
「おー! おかえり!」
三人揃ってお店に入ると、ユキのお父さんはやっぱり笑顔で迎えてくれた。
「お……おじゃまします」
初めて入る神田商店に緊張しているのか、灰坂はユキのお父さんにぎこちなく頭を下げた。
「おう! いらっしゃい!」
ユキのお父さんは変わらぬ笑顔で灰坂の肩をポンポンと叩いた。灰坂は顔を上げて、嬉しそうに微笑んだ。
「どうぞどうぞ! 上がって!」
ユキは靴を脱いで僕と灰坂を手招きする。
「あ、う、うん」
灰坂は靴を脱いでユキに続いて階段を上がっていく。ユキの部屋に入るのは僕も初めてで、少し緊張して靴を脱ぐのに手こずった。灰坂は階段を上がって見えなくなるかならないかのギリギリの所で立ち止まり、僕に振り返った。
「ホタル! 早く!」
灰坂はそう言って笑ったまま階段を駆け上がっていった。僕は見違える様に明るくなった灰坂の姿を見て、何となくこれからの事が全て上手く行きそうな気がしてきた————。