八月の蛍、あの夏の歌
3
田舎の朝は少しだけ早い気がした。
今日は僕にとって始まりの日。地獄のか天国のかはわからないけど、新しい学校生活が始まる重大な日だ。簡単に言えば転校初日の朝と言う事になる。昨晩はやっぱりどこか落ち着かなくてなかなか寝付けなかった。緊張とか慣れないとか理由は色々あるんだろうけど、何より無音ていうのが本当に気味が悪かった。遠くの虫の羽音すら聞こえそうな程静かなのに、それすら聞こえなかった。
田舎の夜は静かすぎる。早くも洗礼を受けた感じだ。
「おお蛍起きたか。おはよう」
居間のふすまを開けると、父さんはテーブルから顔を上げて笑った。居間は既に朝食の準備を終えようとしていて、父さん共々すっかり朝の顔になっていた。
「ん。おはよ」
僕はと言うとまだ朝を迎えられておらず、今ごろになって最大級の眠気が襲って来ていた。目をこすりながら居間に腰下ろす時にようやく目の前にソーメンが並んでいる事に気付くくらい、僕はぼーっとしていた。
「……またソーメン?」
「悪い。今日お前を送ったら買い物に行くから今朝だけ我慢してくれ」
父さんは両手を合わせて頭を下げる。
やってしまった。
僕はいらぬ一言を言ってしまったと後悔した。いつもならこんなミスしないのに、寝不足で頭が全然働いてなかった。
これで今日の夕食は唐揚げに決定。父さんは僕の機嫌を取る時、いつも唐揚げを作る。
僕の好物だからだ。
でも父さんは知らない。僕の好物は『唐揚げ』じゃない。それに親に気を使われすぎるって言うのも子供としてはかなり苦しいものだ。
僕と父さんの距離は常にある一定の距離で保たれている。お互いにその距離を崩そうとはしない。踏み込まず、踏み込ませず。ただ、決して近いとは言えないその距離を僕はこうして失敗する度に痛感していた。
制服は前の学校の様なブレザーではなく、いわゆる学ランと言う物に変わった。
今は夏服になっているので、上はYシャツだけだったが、ハンガーにかけられた詰め襟を見て僕は深い溜め息を吐いた。秋にはこれを着なければならないのかと思うと憂鬱で仕方が無い。別にブレザーが似合っていたわけでもないけど、試着の際に新品の学ランに袖を通した僕は、鏡に映る自分を見てひどく中途半端だと思った。例えるなら都会に焦がれる田舎者。いつも通りに髪の毛なんてセットしなければ良かったと思うくらい、そのあまりの違和感と場違いさに笑う事さえ出来なかった。
「おーい、遅れるぞー」
玄関から父さんの声が届く。僕の部屋は一番端っこ。玄関は反対側の端っこ。僕は少し大きめな声で「今行く!」と返事をしてYシャツのボタンの一番上を閉めて、やっぱり開けた。
通学路は間違えるのが難しいくらいに一本道だった。玄関を出たら右に真っ直ぐ。そして突き当たりを左にいくと学校があった。目印とか無さそうだったし、ちょっと不安だったけど余計だったみたいだ。これを一回で覚えられなきゃよっぽど方向音痴だと思う。
ただ、問題はその距離だ。恐らく片道三十分はかかる。前は十五分だったから単純に倍だ。何にもない道をひたすら三十分。これって結構つらい。
道中、父さんは雑木林にある神社や畑になっているナスやトマトなんかを指差しては良い道だなと笑っていた。僕は舗装されてない土がむき出しの道を踵で削る様に歩いて何となく相槌を打つ事しかできなかった。思ってもいない事を笑って言う気持ちにはなれないくらい、僕はこれから始まる日々に絶望していた。
ようやく辿り着いた学校も想像通りで更に落ち込んだ。
校門の前で立ち止まり、見上げた校舎はやっぱり木造。かろうじて二階建て。
校庭は前の学校より少し狭いくらいだけど、あちこちに雑草が生えていて、両脇にあるサッカーゴールは白い部分の方が少ないくらいに錆び付いていた。
校舎の中も想像通り。ほとんど板張り。おかげで何か全体的に茶色い。
年季が入っているからか、何が汚れているかも分からないくらい壁にも床にも変な濃淡が出来ていて、廊下を歩いても前のリノリウムとは違った感触が上履きを伝って来て変な感じだった。なんか時々、軋むし。
色んな事が気になって僕がどんどん絶望に胸膨らませているのとは裏腹に、父さんはやっぱりどこか楽しそう、と言うより嬉しそうだった。
俺も通いたいなぁなんて言うもんだから、心の中で「じゃあ代わってよ」と呟いた。
「————初めまして。蛍君の担任をさせて頂きます宮沢葉子と申します」
挨拶はえらい簡単なものだった。てっきり僕は校長室に呼ばれて色々と手続きしたりなんてするのかと思っていたんだけど、実際はそんなものとっくに終わっているみたいで、僕は父さんと真っ直ぐ職員室に入り、担任になる宮沢先生とまるで立ち話でもするかの如くあっさりと自己紹介を終えた。
宮沢先生はおっとりした雰囲気で、田舎臭さはそこまで感じられなかった。
まぁ格好はジャージだったけど、年齢は四十そこそこってくらいか。決して美人ではなかった。
父さんと宮沢先生があんまり意味の無さそうな世間話にシフトしだした頃から、僕は窓の外をずっと見ていた。少しずつ生徒達が登校して来る。ジャージの奴に僕と同じような格好の奴。女子のスカートは長めで、男女共に髪を染めている奴は一人も居なかった。
「みんなと仲良くな」
父さんは僕の頭に軽く手を置いて微笑むと宮沢先生に向き直り、息子を宜しくお願いしますと深々と頭を下げた。宮沢先生も息子さんをお預かりしますと頭を下げる。
急に真面目になった空気が気恥ずかしくて、僕も顔を伏せるように頭を下げておいた。
父さんが何度も頭を下げながら職員室を出ていくと、僕はいよいよ始まりを告げる新たな学校生活にいまさらだけど緊張して来た。宮沢先生はそんな僕の気持ちを察したのか分からないけど、背中をポンと叩いて「よろしくね」と笑顔を向けて来た。
僕は笑顔を返す事は出来なかったので「よろしくお願いします」と丁寧におじぎを返した。
職員室を出て脇目もふらずに歩く宮沢先生に着いて行く。職員室を出た瞬間にチャイムが鳴ったから、ホームルームはもう始まっているのだろう。誰もいない茶色い廊下を歩きながら、先生が遅刻していいのだろうか。なんて考えている間に僕はこれから毎日訪れなければならない教室に着いてしまった。
案内されたのは、階段を上がって二階の右から二番目の教室。ちょうど階段を上がった踊り場の目の前だった。木で出来た室名札には黒い字で「2ー1」と書かれている。その左隣は「1ー1」右隣には「3ー1」と書かれていて、さらにその両端の教室にはそれぞれ「図書室」「視聴覚室」と書かれていた。そうなると廊下の左奥、突き当たりにある教室は何となく音楽室のような気がした。
「先生……もしかして一学年一クラスですか?」
「そうよ。そして一クラス二十人くらいの人数」
宮沢先生は「都会から来たのなら信じられない生徒数でしょ」と笑って、いきなり教室の扉を開けた。
————途端に教室中の視線が一斉に僕へと向けられる。
たかだか二十人とは言え、全ての人に顔を向けられると、圧が凄い。
僕は思わず目を逸らして、入り口に立ったまま固まってしまった。
先生はそんな僕を見かねたのか、歩を止めて振り返り、少し強引に手を引いて教卓の前に立った。
予想外の格好悪い登場の仕方に身体がカッと熱くなる。僕はそれをごまかすように、みんなと目を合わさない様に慎重に辺りを見回した。
やはり教室の広さと生徒数が合っていない。おかげで微妙に中央に固まった席の並びになっている。縦四列に横五列。ちょうど窓際の一番後ろの席が空いていた。恐らくそこが僕の席になるのだろう。どうやらこのクラスは僕を入れて丁度二十人のようだ。
大して意味の無い分析をしていると、黒板からカッカッと音が鳴る。先生が黒板に僕の名前を大きく書いていた。
『朝丘蛍』
「ほたる?」
一人の男子が予想通り僕の名前を読み間違える。先生は何も言わず、その男子にニコッと笑って僕の背中を軽く叩いた。どうやらここが自己紹介のタイミングらしい。
僕は姿勢を正し、みんなと視線を合わせた。
「今日からこの学校に通う事になりました。アサオカケイと言います。よろしくお願いします」
言い終わると同時にスッと下げた頭に盛大な拍手が響いてきた。それが照れくさくて、僕はまた目の前のクラスメイトから視線を外しながら顔を上げると、先生が窓際の一番後ろを指差した。
「あそこが君の席よ」
僕にそう微笑みかけると先生はまた背中を叩いてきた。僕は軽く頷いて、集まる視線をさも気にしてない様に誰とも目を合わさず平静を装いながら席に着く。
そうやって少しだけ突き放すような雰囲気を出したつもりなのに、席に着くや否や、隣の席の男子が気安く僕の肩をトントンと叩いてきた。
「よろしくな! ホタル!」
……どうやら、僕のあだ名はホタルになったらしい。
今日は僕にとって始まりの日。地獄のか天国のかはわからないけど、新しい学校生活が始まる重大な日だ。簡単に言えば転校初日の朝と言う事になる。昨晩はやっぱりどこか落ち着かなくてなかなか寝付けなかった。緊張とか慣れないとか理由は色々あるんだろうけど、何より無音ていうのが本当に気味が悪かった。遠くの虫の羽音すら聞こえそうな程静かなのに、それすら聞こえなかった。
田舎の夜は静かすぎる。早くも洗礼を受けた感じだ。
「おお蛍起きたか。おはよう」
居間のふすまを開けると、父さんはテーブルから顔を上げて笑った。居間は既に朝食の準備を終えようとしていて、父さん共々すっかり朝の顔になっていた。
「ん。おはよ」
僕はと言うとまだ朝を迎えられておらず、今ごろになって最大級の眠気が襲って来ていた。目をこすりながら居間に腰下ろす時にようやく目の前にソーメンが並んでいる事に気付くくらい、僕はぼーっとしていた。
「……またソーメン?」
「悪い。今日お前を送ったら買い物に行くから今朝だけ我慢してくれ」
父さんは両手を合わせて頭を下げる。
やってしまった。
僕はいらぬ一言を言ってしまったと後悔した。いつもならこんなミスしないのに、寝不足で頭が全然働いてなかった。
これで今日の夕食は唐揚げに決定。父さんは僕の機嫌を取る時、いつも唐揚げを作る。
僕の好物だからだ。
でも父さんは知らない。僕の好物は『唐揚げ』じゃない。それに親に気を使われすぎるって言うのも子供としてはかなり苦しいものだ。
僕と父さんの距離は常にある一定の距離で保たれている。お互いにその距離を崩そうとはしない。踏み込まず、踏み込ませず。ただ、決して近いとは言えないその距離を僕はこうして失敗する度に痛感していた。
制服は前の学校の様なブレザーではなく、いわゆる学ランと言う物に変わった。
今は夏服になっているので、上はYシャツだけだったが、ハンガーにかけられた詰め襟を見て僕は深い溜め息を吐いた。秋にはこれを着なければならないのかと思うと憂鬱で仕方が無い。別にブレザーが似合っていたわけでもないけど、試着の際に新品の学ランに袖を通した僕は、鏡に映る自分を見てひどく中途半端だと思った。例えるなら都会に焦がれる田舎者。いつも通りに髪の毛なんてセットしなければ良かったと思うくらい、そのあまりの違和感と場違いさに笑う事さえ出来なかった。
「おーい、遅れるぞー」
玄関から父さんの声が届く。僕の部屋は一番端っこ。玄関は反対側の端っこ。僕は少し大きめな声で「今行く!」と返事をしてYシャツのボタンの一番上を閉めて、やっぱり開けた。
通学路は間違えるのが難しいくらいに一本道だった。玄関を出たら右に真っ直ぐ。そして突き当たりを左にいくと学校があった。目印とか無さそうだったし、ちょっと不安だったけど余計だったみたいだ。これを一回で覚えられなきゃよっぽど方向音痴だと思う。
ただ、問題はその距離だ。恐らく片道三十分はかかる。前は十五分だったから単純に倍だ。何にもない道をひたすら三十分。これって結構つらい。
道中、父さんは雑木林にある神社や畑になっているナスやトマトなんかを指差しては良い道だなと笑っていた。僕は舗装されてない土がむき出しの道を踵で削る様に歩いて何となく相槌を打つ事しかできなかった。思ってもいない事を笑って言う気持ちにはなれないくらい、僕はこれから始まる日々に絶望していた。
ようやく辿り着いた学校も想像通りで更に落ち込んだ。
校門の前で立ち止まり、見上げた校舎はやっぱり木造。かろうじて二階建て。
校庭は前の学校より少し狭いくらいだけど、あちこちに雑草が生えていて、両脇にあるサッカーゴールは白い部分の方が少ないくらいに錆び付いていた。
校舎の中も想像通り。ほとんど板張り。おかげで何か全体的に茶色い。
年季が入っているからか、何が汚れているかも分からないくらい壁にも床にも変な濃淡が出来ていて、廊下を歩いても前のリノリウムとは違った感触が上履きを伝って来て変な感じだった。なんか時々、軋むし。
色んな事が気になって僕がどんどん絶望に胸膨らませているのとは裏腹に、父さんはやっぱりどこか楽しそう、と言うより嬉しそうだった。
俺も通いたいなぁなんて言うもんだから、心の中で「じゃあ代わってよ」と呟いた。
「————初めまして。蛍君の担任をさせて頂きます宮沢葉子と申します」
挨拶はえらい簡単なものだった。てっきり僕は校長室に呼ばれて色々と手続きしたりなんてするのかと思っていたんだけど、実際はそんなものとっくに終わっているみたいで、僕は父さんと真っ直ぐ職員室に入り、担任になる宮沢先生とまるで立ち話でもするかの如くあっさりと自己紹介を終えた。
宮沢先生はおっとりした雰囲気で、田舎臭さはそこまで感じられなかった。
まぁ格好はジャージだったけど、年齢は四十そこそこってくらいか。決して美人ではなかった。
父さんと宮沢先生があんまり意味の無さそうな世間話にシフトしだした頃から、僕は窓の外をずっと見ていた。少しずつ生徒達が登校して来る。ジャージの奴に僕と同じような格好の奴。女子のスカートは長めで、男女共に髪を染めている奴は一人も居なかった。
「みんなと仲良くな」
父さんは僕の頭に軽く手を置いて微笑むと宮沢先生に向き直り、息子を宜しくお願いしますと深々と頭を下げた。宮沢先生も息子さんをお預かりしますと頭を下げる。
急に真面目になった空気が気恥ずかしくて、僕も顔を伏せるように頭を下げておいた。
父さんが何度も頭を下げながら職員室を出ていくと、僕はいよいよ始まりを告げる新たな学校生活にいまさらだけど緊張して来た。宮沢先生はそんな僕の気持ちを察したのか分からないけど、背中をポンと叩いて「よろしくね」と笑顔を向けて来た。
僕は笑顔を返す事は出来なかったので「よろしくお願いします」と丁寧におじぎを返した。
職員室を出て脇目もふらずに歩く宮沢先生に着いて行く。職員室を出た瞬間にチャイムが鳴ったから、ホームルームはもう始まっているのだろう。誰もいない茶色い廊下を歩きながら、先生が遅刻していいのだろうか。なんて考えている間に僕はこれから毎日訪れなければならない教室に着いてしまった。
案内されたのは、階段を上がって二階の右から二番目の教室。ちょうど階段を上がった踊り場の目の前だった。木で出来た室名札には黒い字で「2ー1」と書かれている。その左隣は「1ー1」右隣には「3ー1」と書かれていて、さらにその両端の教室にはそれぞれ「図書室」「視聴覚室」と書かれていた。そうなると廊下の左奥、突き当たりにある教室は何となく音楽室のような気がした。
「先生……もしかして一学年一クラスですか?」
「そうよ。そして一クラス二十人くらいの人数」
宮沢先生は「都会から来たのなら信じられない生徒数でしょ」と笑って、いきなり教室の扉を開けた。
————途端に教室中の視線が一斉に僕へと向けられる。
たかだか二十人とは言え、全ての人に顔を向けられると、圧が凄い。
僕は思わず目を逸らして、入り口に立ったまま固まってしまった。
先生はそんな僕を見かねたのか、歩を止めて振り返り、少し強引に手を引いて教卓の前に立った。
予想外の格好悪い登場の仕方に身体がカッと熱くなる。僕はそれをごまかすように、みんなと目を合わさない様に慎重に辺りを見回した。
やはり教室の広さと生徒数が合っていない。おかげで微妙に中央に固まった席の並びになっている。縦四列に横五列。ちょうど窓際の一番後ろの席が空いていた。恐らくそこが僕の席になるのだろう。どうやらこのクラスは僕を入れて丁度二十人のようだ。
大して意味の無い分析をしていると、黒板からカッカッと音が鳴る。先生が黒板に僕の名前を大きく書いていた。
『朝丘蛍』
「ほたる?」
一人の男子が予想通り僕の名前を読み間違える。先生は何も言わず、その男子にニコッと笑って僕の背中を軽く叩いた。どうやらここが自己紹介のタイミングらしい。
僕は姿勢を正し、みんなと視線を合わせた。
「今日からこの学校に通う事になりました。アサオカケイと言います。よろしくお願いします」
言い終わると同時にスッと下げた頭に盛大な拍手が響いてきた。それが照れくさくて、僕はまた目の前のクラスメイトから視線を外しながら顔を上げると、先生が窓際の一番後ろを指差した。
「あそこが君の席よ」
僕にそう微笑みかけると先生はまた背中を叩いてきた。僕は軽く頷いて、集まる視線をさも気にしてない様に誰とも目を合わさず平静を装いながら席に着く。
そうやって少しだけ突き放すような雰囲気を出したつもりなのに、席に着くや否や、隣の席の男子が気安く僕の肩をトントンと叩いてきた。
「よろしくな! ホタル!」
……どうやら、僕のあだ名はホタルになったらしい。